無神論

2022年10月24日


世の中には「ユニコーン系男子」とか「処女厨」と呼ばれる人たちがいる。 

非オタの人のために説明しておくと、女性の処女性に異常なまでに拘る人々のことである。 
「ユニコーン系男子」という名称は伝説上の動物・ユニコーンは処女にだけ心を許す、という伝承に基づく。 


彼らは特にアニメ・声優ファンに多いとされている。 
アニメなどの二次元は自らの理想を投影・仮託しやすい分、こじらせやすいのかもしれない。 
近年では架空のキャラクターが非処女とされただけで騒動に発展するらしい。 


【ニコニコ大百科】
『処女厨』
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%87%A6%E5%A5%B3%E5%8E%A8 

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処女信仰の中でもアイドルやアイドル声優と言ったエンターテインメントの世界の人から、二次元の女性キャラクターにまで処女であることを異常に押し付ける傾向が人一倍強い事で知られる。 

後者の主な例が漫画「かんなぎ」の非処女疑惑騒動であり、この騒動は似たような顧客層を持つ美少女ゲーム界隈にも影響を与え、純愛系ゲームのヒロインは全員必ず処女にする、あるいは初Hシーンで必ず破瓜表現をつけるといった対策が施される事になった。 

女性アイドルの交際が発覚したり、非処女であった事が発覚した場合突如アンチ側に移り、関連グッズを破いたり叩き割る、タレントに危害を加えたりするはた迷惑な存在として知られている。 
中にはストーキング行為に及ぶものまでいれば、殺害予告までして逮捕されたものもいたり犯罪者になってしまう者も少なくない。 

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…まぁこういう犯罪者&その予備軍扱いもどうかと思うが、そもそも「処女厨」という概念自体に「行き過ぎた言動を行う人」という含意もあり(「厨」は「厨房」、つまり「中坊」であり、「中学生なみのレベルの人」という意味である)、定義によってそういった人々を多く含む。 

ことに声優ファンのユニコーン系男子は興味深い存在である。
声優とはアニメのキャラクターと一体の関係でありつつ、同時に実在の女性でもあり、実際に処女であったり非処女であったりする。 
したがって声優はアニメの美少女と同様に処女性を問題とされるが、この拘りは対象が実在女性である分、「二次元のキャラクターの処女性を気に病むこと」ほどの奇異さからは解放されてもいる。 

そのためか、彼らは声高に処女性に執着してみせがちなのだ。
声優ファンは 
『完全に娼婦の声になってる。今の愛生、昔みたく処女膜から声がでていない』
との名言を生み出したことで知られている。 

他にもこんな名言の数々が存在する。 



【(まとめては)いかんのか?】
『声優に彼氏発覚した時の声豚の名言で打線を組んだwwww』
http://blog.livedoor.jp/livejupiter2/archives/5003549.html
 (現在はリンク切れ)

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1 名前:風吹けば名無し :2011/12/23(金) 00:45:17.29 ID:b2qxxhSv 
1(二)俺に死ねと言っているのかよ 
2(遊)世界はなぜ僕を追い詰めるのか 
3(一)チンポしゃぶった口から出る音を俺に聞かせたのか 
4(左)耳に精子がかかる 
5(三)こんな思いをするのなら花や草に生まれたかった 
6(右)近くの心療内科に行ったら急性ストレスによる適応障害って診断された 
7(中)今後誰かが同じ過ちをしない為にも、ここは徹底的に叩くのが正解 
8(捕)完全に娼婦の声になってる 
9(投)処女膜から声が出ていない 

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ユニコーン系男子の生態については他にこのあたりを参照されたい。 


『ノムケン!』 
声豚の名言キモすぎわろたwww
 
http://blog.livedoor.jp/nomuken77/archives/1636506.html 

…で、10年近く前にちょっと話題になったのがコレ。 

IMG_9783

アイドルグループのファンは自分が応援しているメンバーを「推しメン」と呼ぶが、これは推しメンならぬ「推し膜」Tシャツ。 

この発想には度胆を抜かれた。 
なにしろ声優やアイドルを「処女である」と勝手に仮定し、その処女性を「処女膜」に象徴化し、「処女膜」を声優やアイドルの代名詞とした上で省略して混成語にし、それを何の説明もなく使用し、しかもその流通が成立しているのだ! 

なんというねじくれっぷり。 
そもそも処女膜というのは一般に「処女の証」であって(実際にはその証拠能力は低いが【註1】)、膜そのものが魅力的という訳ではない。 
というか、正確には膜ですらなく、ただの襞のようなものである。【註2】 


それが神聖視され、愛情の対象である声優やアイドルそのものと同値で結ばれ、等価に扱われている! 

だがこういった倒立はフェティシズムの本質である。 

例えば、ただの布きれに過ぎないパンツが「性器を覆っている」という理由でプレミアムを付与されて神聖視され、その結果「パンツの中身よりむしろパンツが好き」という本末転倒な人も出てくる。 

フェティシズムは「呪物崇拝」と訳される。 
つまり極めて呪術的な行為である。 


ジェームズ・フレイザーは『金枝篇』において呪術を「類似の原理に基づく『類感呪術』」「接触の原理に基づく『感染呪術』」に大別した。 

類感呪術とは「似ているもの同士には呪術的な関係がある」という「類似の原理」に基づくもの。 
水を撒いて雨乞いすると雨が降る、とかキットカットを持っていれば「きっと勝つ」に音が似ているので受験に受かる、とかがこれにあたる(ついでに、「スタンド使い同士はひかれあう」というのもコレじゃないかと思う)。 

感染呪術とは「関係があったもの同士には呪術的な関係がある」という「接触の原理」に基づくものである。 
つまり密着していたものにはその特性が「うつる」という考え方だ。 
小学生の時の「ウンコ踏んだ奴はウンコ野郎、ウンコ野郎に触られた奴もウンコ野郎」、という謎ルールがコレにあたる。 

しかしフレイザーは「感染呪術には類感呪術を含んだものも存在する」とも述べている。 
例えば藁人形による呪いは「人の形をした藁人形に釘を刺すと対象者が苦しむ」という部分は類感呪術だが、「藁人形に相手の髪の毛を入れる」という部分は感染呪術と言える。 
類似の「紙製のヒトガタに息を吹きかけてから神社に奉納するとヒトガタが身代わりになって病気や悪運を持って行ってくれる」という呪術も同様だ。 


下着フェチにもまた両者が同居している。 
つまり性器と接触していたパンツは性器の属性に「感染」しており、性器のシンボルとして扱える。 
そしてそのシンボルという「類似」のものに対して行ったことは実物に対して行ったことと同じなので、下着をクンカクンカすることは性器をクンカクンカすることと同列、あるいはそれ以上に扱えるのだ。 


本体をサポートする側が本体以上の評価を得るという、下着フェチ。 
あるいは処女性のシンボルに過ぎない処女膜が処女(希望的観測)本人の代名詞化するという、「推し膜」における下剋上。
価値の逆転という意味でこれは紫衣事件に匹敵する歴史的転換点と言えるだろう。 

呪術の本質はシンボル操作であり、シンボル操作をともなう性倒錯は呪物崇拝(フェティシズム)の名に相応しい。 



話が逸れたので元に戻す。 

処女厨は声優・アニメファンに多いとされている、と書いたが、実際には多くの普通の男性は処女性に拘る。 
例えばこの辺を見ると、処女性に拘りすぎて自らを苦しめてしまっている男性がうじゃうじゃいる。 

『ひでぶっ!!BOOKMARK』 
「非処女」と、幸せな結婚を目指すスレ 

http://hidebookmark.com/blog/funny/1350705048.php 
(現在はリンク切れ)

しかも一人が非処女で妥協しようとすると、他の者が説得にかかったりする。 
バケツに何匹ものカニを入れておくと必死で逃げようと這い上るが、お互いに脚を引っ張りあってどのカニも脱出できないという。 
こういうのって誰も幸せにならないカニバケツだなぁ…。 

これに比べると処女キャラが好きなだけのアニメファンの方がはるかにましに思える。 
声優ファンはともかく、アニメファンはそのことで自分の好きな人を傷つけずには済む。 


ネットの世界ではちょっとしたことが炎上につながる。 
ここ10年ほどはアルバイターが職場で悪戯した画像をネット上にアップする、所謂「バイトテロ」が問題になった。 
ああいうのはやらかした本人も不用意ではあるが、同時に叩く側の問題でもある。 
他人の不幸を加速したいだけの物見遊山な人も多いが、真剣に怒っている人もそれなりの数がいるだろう。 

叩かれる側は一応は悪いことをしているので、反論や擁護をしにくい立場にある。 
狭量な正義感に捉われた人々は大義名分を手に入れ、安全な場所から存分に攻撃衝動を解放できるという訳だ。 


そしてネット上の風潮はしばしば現実と乖離する。 
特に不倫をめぐる問題がそうだ。 
ネット上では不倫は大罪とされ、特に女性であれば「誰にでも股を開くビッチ」として異常な攻撃を受ける。 
しかし現実社会においては不倫というのは「好ましくはないにせよしばしば陥るもので、好きな気持ちは止められないから仕方がない」程度の認識の人が多いのではないだろうか。【註3】 


女性の不倫が現実から乖離するまでに異常な叩かれ方をするのは、女性が貞淑であることを多くの男性が望んでいるからだ。

女性は子供が自分の子であることを確信できるが、男性はそうではない。 
したがって男性は自分の子でない子供の養育をさせれるリスクを背負っており、女性の「体の浮気」を嫌悪する傾向にある。
一方、女性は男性が浮気して外で子供を作っても自分の子供が減る訳ではない。 
しかし男性が他の女性や子供の養育にリソースを振り分けると自分が不利になるため、女性は男性の浮気がいつのまにか本気になる「心の浮気」を嫌悪する傾向がある。 

男性が若くて健康的で貞淑で処女の女性を好むのは、これから産むことのできるその男性の子供の数が最も多いからだ。 
この傾向は世界中で普遍的に見られる。【註4】 


イスラム圏では聖戦(ジハード)に参加した男性は死後、天国に行くとされている。 
天国には72人の処女が彼を待ち受け、さらに決して悪酔いすることのない酒や果物、肉などを好きなだけ楽しむことができると言うのだ。 

イスラム圏は一夫多妻制だが、男女の比率は世界中どこでもおよそ1:1。
ステイタスの高い男性は複数の女性と結婚するため、一部の男性が多くの女性を独占することになり、あぶれる男性が大量に出てくる。 
イスラム圏では婚前交渉は禁止なので、独身男性はセックスを知ることもなく子孫も残せない。 

そうなると彼らの命はおそろしく安くなる。【註5】 
どうせ現世で女性が手に入らないのなら、天国の処女を当てにするしかない。 
そこで彼らは航空機を乗っ取り世界貿易センタービルに突っ込むことになる。 
実際、911のテロや自爆テロの実行犯はその様に説得されたらしい。 

妄想上の処女のためにそこまでする人々もいる、ということを考えれば、声優やアイドルマニアの処女信仰など可愛いものだ、とも言える。 

ここでイスラムの教えについて少し調べてみよう。 


Wikipediaの『ジハード』の項にはかつてこう記されていた。
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イスラームにおける「天国」はアラビア語で(جنّة‎ jannah) と呼ばれ、『クルアーン』ではその様子が具体的に綴られているが、それによれば、緑なす木々に覆われ、果実は枝もたわわに実り、清らかな川が数多く流れて、快適な風がつねに吹きわたっている清浄なところであり、天国行きを許されたものに対しては、現世の酒とは異なり、いくら飲んでも酔わない美酒や最上の食べものがあたえられるという。『クルアーン』にはさらに、男性は天国で72人の処女(フーリー)と交わることができ、彼女たちは何回性交におよんでも処女のままである、と記している。 
この「処女」の表現は、比喩的なものにすぎないという意見も多く、あるいはまた、実際は「処女」ではなく「白い果実」という意味であるという説もあるが、過激派組織が自爆テロの人員を募集する際に、年少の者などに対し、このような天国の描写を意図的に用いている場合が少なくないとされ、問題となっている。

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で、このフーリーというのは何かというと… 
これまたWikipedia『フーリー』の項の以前のバージョンにはこうある。

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フーリーは天国に来たイスラム信者の男性のセックスの相手をするとされ、一人につき72人のフーリーが相手をするともいわれる。彼女たちは永遠の処女であり、セックスを行い処女膜が破れても、すぐさま再生するとされる。 
イブン・カスィールによれば、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは『天国では男性は一日100人の処女とセックスが出来る』と述べていた。また、『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』と問いかけた信者に対して、『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』と述べたともしている。 
別の伝承によれば、 ムハンマドは『天国では信徒たちは女性に対してそれだけの強さを与えられるであろう』と述べたところ、アナスが『ああ、アッラーの使徒よ! そのようなことが出来るのでしょうか!?』と問いかけた、ムハンマドは『百人の男に匹敵する精力を得られるのだ』と答えたという。ムハンマドの教友の中には、ムハンマドが『天国の男たちは処女の花を散らすのに忙しくなる。』といったと伝えている者も居る。 
イブン・カスィールはフーリーに関して、『彼女たちは陽気で、夫の前に誰ともセックスを行わなかった乙女たちである。』と述べ 、また『天国においては, 彼女たちが老いたならば, 明るく、若く、美しく、親切でかわいらしく、夫に対して情熱的な処女へと絶えず戻るのである。』とも述べている。 
イマーム・スユーティーは『フーリーとセックスをするたびに、あなたは彼女が処女である事を知るであろう。加えて、勃起したペニスはなえる事がなく、永遠に勃ちつづける。あなたがセックスを行うときの感覚はすばらしく気持ちよく、この世のものとは思えない。この世でこれを経験してしまったならば、気絶するほどである。それぞれの(ムスリム男性)はこの世の妻に加えて、70人のフーリーを娶れる。そして彼女たちはみなあなたの欲望をそそるような名器の持ち主である。』と述べている。 

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うわぁ…読んでるこっちが恥ずかしい。 


永遠に若いままで、再生する処女膜まで持ち、名器ぞろいで処女なのにエロい72人。 
しかも男性も永遠に勃起できるて。 
ナニそのご都合主義…。 


そしてどうなってるねん天国の性比…。 
フーリー、「処女にリセットする」というチート技が使えるので、同じフーリーが多数の男性を相手にしながら毎回「夫の前に他の男とセックスしなかった」状態にリセットしてる疑惑。

なお、コルドバのエウロギウスは9世紀に「こんな天国、ただの売春宿やんけ」と批判したらしい。 



清々しいほど欲望に忠実なイスラムの天国だが、これに匹敵する教義を持つ宗教を発見した。 
他でもない、われらが『空飛ぶスパゲッティ・モンスター教』である。【註6】 


スパモン教の天国にはビール火山とストリッパー工場があるという。 
なお、女性やゲイの信者のために男性ストリッパーも用意されており、しかもそれはストレートの男性信者には見えない仕様。 
ついでに言えば、スパモン教の地獄は天国と変わりがないとされている。 
ただしビールは気が抜けており、ストリッパーは全員が性病持ちであるらしい。 

なんとも欲望に忠実な教義である。 
無限の酒に多数の女性…イスラムと変わらんがな。 



ちなみにトンデモ理論を批判する懐疑主義界隈の用語で「ポーの法則」というのがあってですね… 



【忘却からの帰還】
『メモ「ポーの法則」』
http://transact.seesaa.net/article/156103598.html


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ポーの法則は、原理主義(より一般的には、任意の常軌を逸した理論)のパロディと本物は、いずれも同様に正気とは思えないので、パロディと本物を区別できないと指摘する。 
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つまり世界3大宗教のひとつに数えられるイスラム教は、パロディ宗教であるスパモン教と区別できないほど同様に正気とは思えない教義を持つトンデモ宗教なのだ。 
というか、スパモン教の方がましですらある。 

現代的な視点で見るとイスラムの男根思想っぷりには目を覆いたくなるが… 
これは歴史上の出来事ではなく、現在起きていることなのだ。
しかも21世紀はイスラムの世紀、とまで言われる躍進っぷり。 
大丈夫か人類。 




処女性について、喪男の私はこう考えている。

大抵の男性はダメなのであり、イケメンたちがそのダメっぷりを女性に教えてくれたからこそ、彼女たちは『イケメンもブサメンも結局はダメ』という悟りを得て、それゆえに私の様な非モテにもチャンスが巡ってくる。
むしろ、いばらをかき分け、道を切り拓いてくれたイケメンにありがとうやで!」












【註1:処女の証】 

破瓜時に必ず出血があるわけでもなければ、出血があれば破瓜という訳でもない。 
出血は破瓜の必要条件でもなければ十分条件ですらない。 

ついでに言えば、付き合ってるからといって必ずセックスする訳でもなければ、セックスしていれば付き合っているという訳でもない。 
したがってセックスは付き合うことの必要条件でもなければ十分条件ですらない。 



【註2:処女膜】 

その機能はいまだに不明である。 

「性交を困難にし、それでもやり遂げられるかをテストするため」という説もあるが、これは「女性が意識的にそう目論んでいる」という意味ではなく、単に「処女膜のある女性は結果的にそういう男性の子を産み、『処女膜の遺伝子』と、『処女膜を破れる強い男性の遺伝子』を広げることになった」という意味。

モグラにも処女膜があるが、それは土の侵入を防ぐためらしい。



【註3:不倫】 

ちなみにこれは「責任を負えるのは自分に選択権があるものについてのみ」であり、「恋愛感情はコントロール不能なので選択の埒外である」という暗黙の仮定に基づく。 

これに対して不倫を許さない人は「人間は自らの行動に対してほとんど常に自由な選択権を行使しており、したがって大抵のことは自己責任である」と考えている。 

これは結局のところ「人間に自由意思はあるのか」という数千年来にわたって決着をみなかった哲学的な問いかけであり、どちらも一応擁護可能ではある。 

だが科学的知見から言えば、昔ながらの「人間には完全な自由意志が与えられている」という無邪気で素朴な考え方を続けるのは無理がある。 
可能なのはせいぜいこの程度のものだろう。 

「人に自由意思はないかもしれない。 
仮にあったとしても常にあるわけではなく、その度合いも時どきによって高まったり低まったりするだろう。 
だがそれでは誰も自らの行為に責任を追えず、犯罪にも責任を負わせられなくなり、社会を維持することができなくなる。 
だから擬制として『人には多くの場合、自由意思が存在する』と仮定することにしよう」 



【註4】 

高名な文化人類学者マーガレット・ミードは1920年代、ポリネシア・サモア諸島でフィールドワークを行い、著書『サモアの思春期』においてサモアの原住民は性的に奔放で思春期のストレスもなく、処女性に拘ることもない、と記述した。 

この研究は「氏か育ちか」、つまり人間を作るのは遺伝的要因なのか環境的要因なのか、という論争で環境説を支持するものとして喝采をもって迎えられた。 
性の罪悪視やそれに伴う処女信仰はキリスト教世界が生んだ文化的なものであり、本来人間はタブラ・ラサ(白紙状態。ラテン語で「空白の石版」の意。英語ではブランク・スレート)で、後から何でも書き込めるのだ、という訳だ。 
そのため、ミードの著作は現在でもジェンダー論者の著作に引用され続けている(男女の違いはあくまで環境要因のみ、ということになるためだ)。 

だがデレク・フリーマンがミードの研究を詳細に調査したところ、その多くはでたらめであったことが判明した。 
ミードがサモアに滞在したのは数か月に過ぎず、言語も判らず、地元の少女たちのホラ話を真に受けてしまっていた。 
結局、サモアの人々も処女性には強いこだわりを見せることが判明。 

世界中で行われた調査結果から、処女へのこだわりは人類に普遍的な形質、ヒューマン・ユニヴァーサルであるらしい。 



【註5】 

あぶれた男性が命を安売りする傾向については下記のエントリを参照。 

『ヒトのやること大体同じ:ジョーカー事件はアモクだよ説』
http://wsogmm.livedoor.blog/archives/15038623.html



【註6】 

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教については下記のエントリを参照。 

『空飛ぶスパゲッティ・モンスター、クトゥルー神話の怪物としか思えない』
http://wsogmm.livedoor.blog/archives/15709640.html







【付記】 

私自身は処女性に特にこだわりはない。 

処女性はもともとは繁殖能力の指標に過ぎないので、セックスが繁殖ではなくコミュニケーションの手段となり、避妊法も発達した現代においてそこにこだわることにあまり意味はない。
だがそれを言い出せばセックスや恋愛だって突き詰めれば遺伝的なプログラムに過ぎない訳で、その線からの説得はあまり有効ではないだろう。 
我々は生物的本性から自由ではないのだ。 

世の中には逆に「処女は面倒くさい」とか言い出す人もいるが、こういう態度は処女の方に失礼だし、「俺はその気になれば処女も落とせるんだぜ?」みたいな自慢臭がして好きではない。 
処女は「崇拝せず・嘲笑せず・忌避せず」の皮膜三原則で。 

ただし、私も書籍などを買う時は商品の処女性にこだわる。 
書店員・田北鑑生のエッセイによれば、書店の客はしばしばこれにこだわり、スカトロ雑誌『お尻倶楽部』を買う客でさえ表紙のちょっとした汚れにものすごくうるさかったりするらしい。 
「写ってるのはウンコなのに」 
とは氏の弁。 


なお、今回のタイトルは映画『ヴァージン・スーサイズ』とその原作『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』のもじり。 


イスラム絡みではこういうネタもあったが、ガセっぽい気もするので扱わなかった。 

『なんでも評点』 
死刑前夜の若い女囚たちから処女を奪う権限を与えられた18歳の看守 ― イランでは処女の死刑が禁止なので、このような方法が採られている? 

http://rate.livedoor.biz/archives/50870951.html 






(01:13)

2022年10月06日



キリスト教の様でキリスト教じゃない、ちょっとキリスト教な宗教が世間を騒がせていますね。
しかし本家キリスト教はカルトじゃなくて伝統宗教だから大丈夫かと言えば、特にそんなこともなく。

個人的には「海が割れた」とか「処女が妊娠した」とかいうファンタジーを信じてる人たちとはあまりお友達になれる気がしません。
という訳で、神様批判のエントリもすでに書いた訳ですが…


【驚愕のプロパガンダ映画『神は死んだのか』 前編】
http://wsogmm.livedoor.blog/archives/14981195.html

【驚愕のプロパガンダ映画『神は死んだのか』 後編】
http://wsogmm.livedoor.blog/archives/14981234.html

なんかね、この神という概念の怪しさは「私に信仰心がない」とかいう問題ではない気がするのですよ。
むしろ信者さんサイドに信仰心が不足しているよーな…。
この人たち、神の力を舐め過ぎてないですか?
…という話を今回はしていきたいと思います。


あ、ここで言う「神」とは概ねキリスト教などのアブラハム宗教的な、全知全能の人格神のことです。
私は神のこともできるだけ公正に扱いたいので、例えば
「神は自分で持ち上げられないほど大きな岩を作れるか?」
みたいなイジワルなことは言いません。
コレは一見すると
・「作れる」→じゃあ持ち上げられないじゃん、全能ちゃうやん。はい論破!
・「作れない」→じゃあ全能ちゃうやん。はい論破!

…という、どっちに転んでも勝てる両面待ち戦法なのですが…
コレどっちに転んでも反論できない、『反証可能性のない議論』ですよね?
あと神が全能かどうかを巡って議論しているのに、その中に「神が持ち上げられないほど大きな岩」がある、などという前提が登場しちゃうのは、前提の中に結論を組み込んだ『論点先取』です。

懐疑主義者も神様ではないので(そもそも懐疑主義者なら神の存在に懐疑的ですが…)、時にはこういう雑な論法を持ち込むことがあります。
しかし懐疑主義者はそれらを自ら指摘し、放棄する自浄作用も持っているのです。
その辺が根拠レスなおとぎ話を無批判に受け入れ、何千年も信じ続ける宗教信者と異なる点です。

ついでにもうひとつ指摘しておくと、血液型占い批判によくある「ヒトの性格がたった4つに分類できる筈がない」という批判も的外れでは…。
例えば「食べ過ぎると太る」といった言及は、体型を「太ってる」と「そうでない」のたった2つに分類し、その因果関係をカロリー摂取量に求めている訳ですが、特に問題がある様には思えません。

…といった懐疑主義的批判を、信者さんに向けていきたいと思います。



【時間】

神様の最初にして最大の仕事といえば天地創造。
神といえども7日(だか5日半だか)かかったという難事業です。
神が本当に全知全能で無限の力を持つなら、どんなことでも一瞬で行える筈ですよね。
世界の創造に7日(だか5日半だか)かけるまでもなく、思いついた瞬間に完パケ納品
いや、神ならば「原因&結果」などという因果律に縛られることもなく、思いつく前にすでに完成。 
全知全能の神が実在するなら、プロシュート兄貴風にこう考えるのではないでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おいオメー さっきからうるせえぞ
「奇跡が起きる」「罰が当たる」ってよォ~~~
どういうつもりだてめー そういう言葉はオレたちの世界にはねーんだぜ…
そんな不完全な者の使う言葉はな………
「神の再臨は近い」… そんな言葉は使う必要がねーんだ
なぜなら神や 天使たちの仲間は その言葉を頭に思い浮かべた時には!
実際にやっちまって もうすでに 終わってるからだッ!
だから使った事がねェ―――ッ
信者 オマエもそうなるよなァ~~~~~~
オレたちの仲間なら… わかるか?オレの言ってる事… え?
『もう全部やった』なら使ってもいいッ!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


…そしてそもそも神が全知全能なら天使も奇跡も必要ない筈。



【天使】

天使というのは神の僕(しもべ)で、ヒトより強いけど神より弱い力を持つとされる存在。
強力な部下を多数従え、細かい仕事は使用人にやらせるというのは、どう見ても王や貴族など「ヒトの権力者」の豪華版でしかありません。。
全知全能ならそんなもってまわった間接的な方法ではなく、全て自分で一瞬で行えますよね。
そんなヒトの感覚に縛られたチンケな設定にしがみつくとか、神の「無限の力」を舐めてるでしょ…。
あと一神教とか言うけど、結局のところ天使という「ショボめの神」がいる多神教疑惑。



【奇跡】

奇跡を起こすのも神の能力の様ですが、コレもよくよく考えると変。
全知全能の神による世界運営は完璧なのだから、わざわざ奇跡によって介入する必要などない筈。
それとも信者さんは「神の作った世界に奇跡による改善の余地がある」とでも思ってるのでしょうか…?
信仰心が足りませんね。



【祈り】

祈るという行為も訳が分かりません。
アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』において、「祈る」をこう書いています。

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はっきり言えば取るに足りないたったひとりの請願者の利益のために万物の掟を捻じ曲げるように求めること。
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…というか、神の全知全能と無謬性を信じている筈の信者が、
「おお神よ、私にはあなたのプランより良いアイデアがあります。予定を変更して母の病気を治してみるというのはいかがでしょうか?」
とアドバイスするってどういうこと?
信者さんは一体何様のつもりなんですか?
神の前にひざまずく気あんの?


奇跡や祈りなどというものが必要とされるのは、神がしばしば無慈悲で、信者が救済を求めたくなるような世界だからです。
全知全能なら、どうして理不尽なことが起きない様に世界をデザインしなかったのですかね?
私が神なら絶対そうしますけど。

こういう時の信者の言い訳の定番は
「神には何かお考えがおありなのだ」
「神の深遠な計画は人間には理解できない」

というもの。

この手の「説明になってない説明」は宗教に溢れています。
信者は良いことがあると「神のおかげ」と感謝し、悪いことがあると「悪魔の仕業」や「神の計画」に逃げがち。
都合の良いダブスタですね…。

しかも、その悪魔を創造したのも神でしょ…。【※註1】
製造物責任という概念は神にはないのでしょうか。

そもそも神の意図が我々には理解できないのなら、神が善なる存在かどうかも分からないですよね?
めちゃめちゃ悪い奴で我々を騙しているのかもしれないし、善悪など超越しているのかもしれません。

そもそも神が善なら、なぜ悪が存在するのでしょう?
エピクロスはこう言っています。

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もし神が悪を妨げる意思はあっても力が無いなら全能ではない。力はあるが意思が無いなら邪神である。力も意思もあるなら悪はどこから来るのだろう。力も意思もないなら、なぜ神と呼べるのだろう
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…そしていろいろ不干渉の割にシモの話にはうるさいですよね神。
新無神論botがこんなこと言ってました。

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神:飢餓を無くす力を持ちながら、かわりに、マスターベーションを覗き見してる。
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ドーキンスbotも。

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宇宙の創造主が、(男性器の)包皮を作る際に大変苦労し、あなたにそれをカットしろと主張している。筋の通った話だ。
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ドーキンスbotはこうも言ってます。

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『旧約聖書』の神は、おそらく間違いなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である…血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをする弱い者いじめだ
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…旧約聖書の神はなぜか卑小な人間如きに崇められたがるという承認欲求の塊で、やたら嫉妬深い…
もうこれ半分、職能が「嫉妬」の悪魔やろ。

結局、神とは2000年前の人の空想の産物…
なので「無限」や「全知全能」という設定の詰めが甘く、感情的だったり多くの部下を従えたり崇められたがったりと権力者風味で、やたら人間臭いのですね。
いかにも昔の人の「ぼくのかんがえたさいきょうの神さま」って感じ。

そんなに崇められたいなら実在する証拠を作っておけば良いのに、そうはしないのは何故…?
「証拠なしに信じることが大事」だから?
それは信仰ではなく盲信ですよね。
証拠のないモノを信じないことで誰かを非難することなんて、論理的にも道義的にもできる筈ないやん。
新無神論botにこんなのがありました。

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(死後、神の前に立たされ、なぜ神を信じなかったのか問われたとしたら)「証拠が十分でなかったのですよ。神様、十分な証拠がなかったからですよ」 ― バートランド・ラッセル
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…まぁ昔の人が考えることには限界があったのです。
昔の人が描いた「聖ゲオルギオスのドラゴン退治」の絵とか、ドラゴンが犬くらいの大きさで「羽根の生えたツチノコ」みたいなやつだったりしますよね…

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世界の猛獣や化石の恐竜、映画の怪獣などの図像に触れてない人が想像する「すげーヤバいドラゴン」はそのあたりが限界だったのでしょう。
それみたいなモン。

ちなみに私は「いつの時代もヒトの発想や行動はあまり変わらない」と思ってます。
しかし積み上げられた知識の質と量に関しては現代に圧倒的なアドバンテージがあることは否定できません。
我々は先人たちという「巨人の肩に乗って」物事を見るという特権を与えられているのですから。

信者さんの中にもこの様な現代的な考え方を導入し、生物は「神が個別に創造した」のではなく、「最初に神が法則をプログラムし、後は放っておいても自動で進化する様にしたのだ、何しろ神は全知全能なので全て効率良くなされるのだ」と解釈する一派もいます。
まぁ努力は認めますが、やはり詰めが甘い…。
神は無限の力を持つのですから、節約や効率などという、有限のリソースに縛られたヒトの様なセコい考え方をする理由はどこにもありません。

勿論、ここで「神はきまぐれに効率や節約に興味を持たれるのだ」と言い抜けることもできなくはありません。
しかしそれは「神がそうしたければ能力的には可能」というだけで、動機は全く説明してないですよね。
これも先述の「説明になってない説明」に過ぎません。宗教の得意技。


『レリジュラス』という宗教ドキュメンタリー映画にこんなシーンがあります。
旧約聖書には「安息日に仕事したやつ死刑」的なことが書いてあるため、厳格なユダヤ教徒は安息日には機械操作することも禁止。
電気仕掛けのものを操作することは電気火花を生み、「火を灯す」という仕事をすることになるからです。
なのでエレベーターのボタンも押せません。
そこで信者は「ボタン型に穴の開いたボード&スティック」を持って搭乗。
ボードをコントロールパネルに被せ、穴にスティックを通してボタンを押します。
「これは操作した訳ではなく、穴に棒を挿しただけ」ということらしいのですが…何ともはや。
電気車椅子も操作できません。
そこで信者は安息日の1日をなんとかしのげる様に、圧搾空気で動く車椅子を開発。

…何ですかこの「僕は彼を殴ったんじゃない、拳を突き出しただけ」みたいな言い訳は。【※註2】
ていうかこの人たち、神様が
「あっコイツ安息日に電気車椅子操作してるンゴ! 死刑にするンゴ! でもこっちの奴は圧搾空気のやつだからセーフ!」
とか考える、って本気で思ってんの…?
こんなん神の裏をかこうとする不正行為やろ…それでも信者か!?
そして神をこんな杓子定規で条文主義のお役人みたいな存在だと考えるとは…不敬にも程があるやろ。

無神論者の私から見ても、神が不憫でなりません。
まぁ信者さんの方もたいがい不憫なんだけど。(ヒント:ヨブ記)


そんなこんなで、宗教信者の皆さんには「全知全能」という概念を、現代的な考え方にアプデしてから来てほしいです。






【後日付記】

↓こんなの発見。

【Wikipedia】
『全能者の逆説』

『また、神を全能者とする場合、伝統に反した答えが導かれる[10]。例えば神が全能者として存在しているとすると、神は一切何も必要とせず存在可能なため、神にとって世界や被造物は必要でなく、何かを愛する必要もない[10]。』








【※註1:悪魔を創造したのも神】

こういう話をすると信者さんはすぐに「神は自由意志をお与えになった」みたいな話を始めるのですが、大抵、自由意志に関する哲学的な議論は踏まえません。



【※註2:「僕は彼を殴ったんじゃない、拳を突き出しただけ」】

ちなみにウィリアム・O・ダグラス最高裁判所判事はこう言ってます。
『私の拳を素早く動かす自由はあなたの顎の近くでは制限されなければならない』
…ついでに言えば、コレは表現の自由を巡る議論でも重要な視点です。
表現の自由戦士の言ってることって
「自分には好きに振る舞う自由があるんだから、拳が当たって痛い思いをする奴がいたって知ったこっちゃない」
みたいなコトよね…




(00:25)

2022年08月20日


高校生のころ、私はクトゥルー神話小説を読み耽る暗い少年だった。 
今思えば青春時代にわざわざそんな大仰なだけの怪奇小説ばかり読まなくてもいいと思うのだが、当時の私の気持ちにぴったりくるものがあったのだろう。 


クトゥルー神話(クトゥルフ神話)は20世紀初頭にH.P.ラヴクラフトを中心とした怪奇小説作家たちによって成立した体系だ。 
はじめは作家同士がそれぞれの作品に共通の新造語を滑り込ませたりして仲間内で悦んでいただけの、いわば楽屋オチのようなものだったという。 
だが後にそれらは緻密な設定へと発展していく。 


ラヴクラフトは自身の作品を「コズミック・ホラー(宇宙的恐怖)」と呼んだ。 
その世界観は、基本的に「広大無辺な宇宙にあって人間など何の意味もない無力な存在である」というものだ。【註1】 

それらの作品には吸血鬼や狼男といった伝統的で手垢のついたキャラクターではなく、奇妙な名前の、絶対的な力を持つ存在が登場する。 
彼らは邪神と呼ばれたりもするが、実際には邪でもなければ神でもない。 
そういった、人間の狭量な価値観を超越した異世界の存在だ。 
その姿は人間の想像を絶しており、正確に描写することができず、見ただけで発狂してしまうほどだという。【註2】 

例えば「アザトース」という神について検索するとこう解説されている。 


『異形の神々の王であり、万物の神、絶対神。盲目、白痴で、時空の彼方にある混沌の中心でおぞましい不定形の巨体を玉座に横たえ、従者の吹き鳴らすフルートに合わせて身悶えを繰り返しており、その周囲では異形の神々がよたよたと踊り続けているという。アザトースのいる混沌の中心では思考が現実となり、世の全てのものはアザトースの心の中で創造されたのだと言われる。この神は「屈折した空間の彼方」や「奇怪な核を備えた混沌」などと形容され、その姿は見ただけで人間を発狂させてしまうとされる』 



クトゥルー神話作品の多くは小説としては凡庸なものである。 
『ふとしたきっかけから主人公は禁断の知識について書かれた「魔道書」を読んだり、異界の存在と接触することによって宇宙の真理について知ってしまう。 
その恐るべき真実(それが何であるかは決して語られない)の重みに耐え切れなくなった彼を待っているものは、狂気か破滅のみ…』 

とかなんとか、そんな内容がおどろおどろしく書かれているだけだ。 

作品のいくつかは「発見された日記」という体裁をとっており、 
「私は恐怖に怯えながらこれを書いている…そう、あれは1年前のことだった」 
といった告白で始まり、 
「…今のところ、私はどうにか逃げ延びている。だがそれもいつまで続くか…待て、あれは何だ!? 窓に!窓に!」 
とかで終わってたりする。 【註3】
悠長に書いてんとはよ逃げろや。 


そんなくだらない小説をどうしてあんなにも愛したのだろうか。 

一部の人間にだけ理解できる、という敷居の高さが歪んだ優越感を刺激するから、という部分は外せないだろう。 

クトゥルー神話はもともとが楽屋オチなので、様々な作品にさりげなくちらりと織り交ぜられている。 

例えば荒俣宏の小説『帝都物語』には一箇所だけ「狂気山脈」という地名が出てくるし、『バットマン』シリーズでしばしばヴィラン(悪役)が収容される精神病院の名前は「アーカム・アサイラム」である。 
「ウルトラマンティガ」の最後の敵は「ガタノゾーア」だ。 

「狂気山脈」「アーカム」はクトゥルー神話に出てくる地名で、「ガタノゾーア」は怪物の名前「ガタノソア」のもじりである。 

どの作品も、これらの知識がなくても楽しむことはできる。【註4】 
だが知っている者は、ここで「にやり」と暗い悦びに浸ることが出来るのだ。 

コンプレックスまみれのおたく者にとって、この「解かる人にだけ解かる」という一種の選民思想はご馳走である。 
たとえそれがコンプレックスの裏返しに過ぎないとしても。 


だが、私がクトゥルー神話を好んだ理由はそれだけではない。 
いじめに遭って人間不信に陥り、社会の全てを呪い続けていた当時の私にとって、「人間になど何の価値もない」とするその世界観は奇妙に心地良かった。 
眩しすぎる光のあたる世界よりも、生暖かい闇に優しく抱きしめられる方が、私は私でいられたのだと思う。 

クトゥルー神話にはしばしば「魔導書」が登場する(中でも「ネクロノミコン」は特に有名で、H.R.ギーガーの画集のタイトルにもなった)。 
主人公たちは魔導書に書かれた禁断の知識に触れ、狂気に陥ったり邪神に接触することになる。 
にも関わらず、彼らは魔導書を読むことをやめられない。 


恐るべき宇宙の姿に関する禁断の知識。 
身を滅ぼすことがわかっていても、その魅力に抗しきれない人間の欲望。 
それらは現代科学に奇妙に似ている。 


現代科学はかつて人々が夢見た様には人類を救ったりしなかった。 
むしろそれは巨大化し、人間を飲み込もうとする怪物だ。 
そして科学は愛と善に満ちた神の居場所を次々と奪い、全てを無意味な物質の働きに還元していく。 

科学は人類を特権的な地位から引きずり降ろし、神を殺し、宇宙の中心は空っぽでそこには何もないのだと嘲笑する。 

その狂気じみた、身を焦がす絶望こそが、私には至高の快楽だったのだ。 
生物学の本を読みながら何度「こ、これは『ネクロノミコン』だ…」と思ったことか。【註5】 


何のことはない、私はクトゥルー神話を卒業したつもりになっていたが、現代科学の門から再入学してずっと同じことを繰り返していたのだ。 
あたかも魔導書や邪神たちから逃れることができなかった、クトゥルー神話の物語の登場人物の様に。 

そしてクトゥルー神話の「知られざる存在が全てを支配する」という世界観、社会破滅願望、ファンの歪んだ選民思想…
それらはオウム真理教やQアノンが唱える陰謀論と奇妙なほど似ている




…そして現在、ラヴクラフトらが描いた邪神は別の形で復活を遂げつつある。 





アメリカはピューリタンが移民してできた国のせいか、未だに聖書を一言一句にいたるまで信じている人が沢山いる。 
彼らはキリスト教根本主義(原理主義)と呼ばれ、その最大勢力であるプロテスタント福音派は共和党の支持母体としていまや絶大な発言権を手にしている。 

彼らは「人間は神の創造した最高傑作である」と考えているため、当然「ヒトは他の生物から進化した」とする進化論とは折り合いが悪い。 

彼らは学校の授業で進化論が教えられているのが我慢できないらしく、数十年にわたって公教育に様々な横槍を入れてきた。 

はじめは「進化論は間違っているから教えるな」などと正面から要求していたが、科学界からの大反対があり、裁判でも負けてこの戦術は諦めざるをえなくなる。 

彼らは今ではもっと巧妙なからめ手を使う様になっている。 

「OK、進化論が科学的な仮説だというのは認めよう。 
でも、あくまで仮説だ。立証されたわけじゃない。 
ところで、別に神だとは言わないが、どこかにいる『インテリジェント・デザイナー(知性あるデザイナー)』──いいかい、それが神だとは決して言っていないよ──が生命を創造したという仮説も成り立つよね? 
これだって充分に科学的な仮説さ。 
そこで提案があるんだが、公教育の場では子供達に進化論とこのインテリジェント・デザイナー理論(ID理論)を同じ時間ずつ教えることにしようじゃないか。 
子供達にはより多くの選択肢に触れる権利があるんだ。 
そして自分で好きな仮説を選べばいい」 


…というわけである。 


この主張は聖書の教える創造論から宗教色をちょっぴり薄めただけで、実質はバリバリのキリスト教と変わらない。 
このあからさまなやり方は「科学教育の玄関から神サマを入れるわけにはいかないので裏口からこっそり入れてるだけだろ」と非難を受けることになった。 


ところでアメリカは良い意味でも悪い意味でもバカ濃度の高い国であり、ここに素晴らしいバカが登場する(※褒め言葉です)。 

彼の名はボビー・ヘンダーソン。 
当時20代の若者だった。
カンザス州の教育委員会で「進化論とID理論を同じ時間ずつ教える」という採択が行われようとしていた時、彼はこんな公開質問状を提出した。 

「僕は『空飛ぶスパゲッティの怪物』(フライング・スパゲッティ・モンスター)がこの世界を創造したという仮説を立てたんだ。 
これは根拠のある科学的仮説だよ。 
だから、公教育では進化論とID理論とフライング・スパゲッティ・モンスター説を1/3ずつ教えるべきだよね?」 


ボビーのこの暴挙はネットを中心にバカウケしてしまい、今では彼はスパゲッティ・モンスター教の伝導で食べているという。 


スパモンの御姿。

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最初に描かれたスパモン様と、世界の創造の様子。 

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スパモン教の主な教義は以下の通り(Wikipediaにあったものに加筆)。


○宇宙は空飛ぶスパゲッティ・モンスターによって創造された。 

○最初に創造したものは、山、木々、小人一人だった。 

○すべての証拠が、進化はモンスターのヌードル触手によって推進されたことを示している。 

○古代の人の身長が低いのはモンスターの触手によって頭を押さえられていたからであり、現代人の背が高いのは触手が足りなくなったからである。 

○地球温暖化、大地震、ハリケーンや他の自然災害は1800年代に始まる海賊の数の減少の直接的な結果である。 

○ボビー・ヘンダーソンがこの宗教の「預言者」である。 

○信者は海賊の衣装を着る。海賊はモンスター教の中で重要な位置を占めている。 

○男性の乳首は痕跡器官ではなく、海賊が気温や風向きをはかるのに必要だったから存在する。 

○彼らが信仰する偉大なるヌードルと同様、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教徒は家族倫理を共有している。 

○宗教的な祭日は毎金曜日。 

○天国にはストリッパー工場とビール火山が約束されている。
女性やゲイの信者のために男性ストリッパーもおり、それらはストレート男性信者には見えない。

◯地獄は天国と同じだが、ビールは気が抜けており、ストリッパーは全員病気持ちである。

○祈るとき、「アーメン」の代わりに「ラーメン」と言う。 

○学校教育では進化論のみならずスパゲッティ・モンスター創造説を教えるべきだ。 

○ブッシュ大統領をはじめとする「進化論以外の創造説も学校教育で教えるべきだ」と主張する人々は我々の代弁者だ。 






ラヴクラフトは病的に甲殻類や頭足類を怖れたという。 
そのため、クトゥルー神話の邪神はしばしばそれらに似ている(例えばクトゥルーはタコもしくはヤリイカと竜と人間を足した様な姿とされている)。 


まるで頭足類の様な、何本ものヌードル触手を垂らしたスパゲッティの塊(ミートボール2個付き)から甲殻類よろしく眼柄のついた目玉を飛び出させたスパモンの姿は、クトゥルー神話に登場する邪神たちの姿に酷似してはいないだろうか? 


やけにテキトーに行われたスパモンによる創造劇は、人間の存在に意味などないというラヴクラフトの好んだテーマ性と妙に符号していないだろうか? 


先ほどのアザトースに関する解説はそのままスパモンの描写だと考えることはできないだろうか? 



キリスト教という人間の狭量なドグマを打ち砕き、嘲笑してみせる絶対神は確かにこの世界に降臨した。 
ラヴクラフトが想像した通りに。 


ただひとつ誰も予想していなかったのは、「考えうる最悪の神」とは身の毛もよだつほど恐ろしい存在ではなく、げんなりするほどの脱力お笑い系だったことである。 




フライング・スパゲッティ・モンスター教は日本において分派を生み、それは怖るべき『地を這ううどん怪物教』となるのだが、それはまた別の話。












【註1:クトゥルー神話の宇宙観】 

クトゥルー神話は多数の人間によって漠然と作られ、現在も生産され続けているため、公式な設定はない。 
神話の普及に尽力したオーガスト・ダーレスは「邪神(旧支配者)はさらに強大な力を持つ善なる神(旧神)によって封印されている」という設定を勝手に作っている。 
だがこれは神vs悪魔のキリスト教的世界観の焼き直しであり、ラヴクラフトの目指したものとはかなり違っている。 

私はクトゥルー神話についてさして詳しいわけではなく、今回の日記は様々な設定が混ざり合っている上に不正確な記述が多いのでそのつもりで。 

また、クトゥルー神話に関する知識の多くは山本弘氏の名著「クトゥルフ・ハンドブック」から仕入れたものである。 






【註2:見ただけで発狂】 

クトゥルー神話マニアはしばしば「邪神の姿は人間には想像することすら出来ない」などと持ち上げるが、もしラブクラフトに現在のB級ホラー映画でも観せたら「おお、これこそ私が求めていたデザイン…いや、それ以上のものだ!」とか何とか、誉めちぎる気がする。 

同様に、「ラヴクラフトは霊感によって真実を書いた」という主張もしばしば見かける。 
神話作品をより楽しむための『設定』もしくは『お遊び』としては結構だが、どこまでも主張されると個人的にはちょっと引く。 
真剣な主張ではなく、おたく者特有の「半ば冗談・半ば本気」の 知的遊戯の一種なのだとは思うが、それはそれでそののらくらしつつ斜に構えた態度に同属嫌悪を感じると言うか…。


【註3:発見された日記】

『食人族』の様な、「発見されたフィルム」という体の映画を「フォウンド・フッテージ」と呼ぶが、小説では古くから同様の試みがある。
永井荷風によるとされる『四畳半襖の下張』もそうだし、『バイオハザード』の「飼育員の日記」もこの系譜に入るだろう。



【註4: 知識がなくても楽しむことはできる】 

偉そうに書いているが、帝都物語は一通り読んだだけ。 
バットマンは映画は観てるが原作は読んでない。
ウルトラマンティガは観たことすらない。 



【註5:ネクロノミコン】 

矢野健太郎という主に80年代に活躍した漫画家がいる。
ドラマ化もされた島本和彦の漫画『アオイホノオ』 にも登場するのでご存じの方も多いだろう。
彼はクトゥルー神話をテーマにした作品集の中で邪神を原子力のアナロジーとして描いた漫画を発表した。 

彼は広瀬隆の反原発本を読んで「ネクロノミコンを読んでしまった…」と感じたという(ここでは広瀬隆の著作の妥当性についてはさて置くこととする)。 
それから彼は反原発運動に参加し、友人に議論を吹っ掛けまくってそのうちの幾人かを失った。 

その後、政治からいくらか身を引きつつ、その時の体験を織り交ぜて描かれた作品はこんな結論で終わる。 

「ラヴクラフトは宇宙的恐怖に触れた者は恐ろしさのあまり発狂するだろうと考えた。 
だが多くの人々は人類がいつ滅んでもおかしくない時代に生きながら恐怖を感じることもなく、淡々と日常を過ごしている。 
人間は宇宙的恐怖に発狂したりしない。 
ただただ無関心なのだ」 


その「恐怖しないことへの恐怖」は本当に恐ろしかった。 
「絶望的な状況」に「恐怖さえも感じない人々」をさらに「突き放した目線」で描いていたからだ。 

現代科学にも同じことが言える。 
どうして多くの人々が科学の成果をもっと自分自身の存在に引き寄せて真剣に考えないのか、どうしてアイデンティティー・クライシスに陥らないのか、理解に苦しむ。 

だが私自身、おそらくは同じなのだ。 

天動説の時代の人間から見れば、私が地動説を受け入れることに何の心理的抵抗もないことは恐ろしく鈍感に見えるだろう。 
一方で、未来の人間から見れば私は随分とナイーブに見えるに違いない。 

私は単に自分がたまたま科学に興味を持っているからこの問題に拘泥するが、一方で差し迫った問題であるはずの地球環境の保全にはあまり危機感を抱いてなかったりもする(抱くべきだとは思うのだが)。

結局、そういうことに過ぎないのだろう。 





(00:07)

2022年06月24日


前回の続き。


【驚愕のプロパガンダ映画『神は死んだのか』 前編】
http://wsogmm.livedoor.blog/archives/14981195.html



   (承前) 





◉「立場を利用しての押し付けやめろや」 

  ↓ 
これは教授の人格の問題であって、神の実在に関する議論とは関係がないよね? 

それにこの部分はフィクションよね? 
おっと、あなた方は架空と実在の区別が苦手なんだっけ、失敬失敬。 

あと押し付けは宗教の得意技よね? 
魔女狩りとか異端審問はナニよ…。 
無神論を標榜する社会主義国が宗教弾圧をした? 
それは無神論を無謬の教義として盲信したからでしょ? 
危険なのは盲信であって無神論ではありません。 

よく

「無神論者は『無神論教』という宗教を信じているだけだ」
という反論を聞きますが、健康な科学は対立仮説にも心を開き、必要があれば自説を修正したり棄却したりします。 
そこには盲信の要素はなく、「宗教の一種だ」という批判は当てはまりません。 
我々が科学を受け容れるのは、証拠がそれを強いるからです。 

「無神論も宗教」というのは無理矢理共通点を探しているだけで、「聖書だって科学論文だって紙に書かれた文字という意味では同じだ」と言う様なもの。 
そりゃ確かにそうだろうけど、それがどうしたの? 



教授の反論 
◎「それは縛りを解くため。宗教は心のウィルスや! しかもキリスト教は弱者を狙うところが悪質やん」 


   ↓ 
ここのくだり、やけによく出来てます。 
いいぞ教授、もっと言え! 
でも無神論否定映画なのに大丈夫なのか? 

それともアレか、ココはガチの信者なら 
「宗教をウィルス扱いかよ! 無神論ってマジで糞だな」 
ってなるので、無神論をめっちゃ貶めてみせたつもりなのか…!? 
でも私的には「宗教はウィルスです」で全然OK。 


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ドーキンスは、こんな内容の本を想像するように我々に言った。〈この本を信じなさい。そしてあなたの子供たちにも信じさせなさい。さもないと、あなたが死んだ時、きっと地獄と呼ばれるとても不快な所へ行くことになりましょうぞ…〉。「こういうのが、非常に有効な自己複製暗号(copy-me code)の一例だ。もちろん、指令をすぐ受け入れるほど馬鹿な奴はどこにもいない。『これを信じて、あなたの子供たちに信じるように言いなさい』なんて。もう少しさりげなく、もっとうまい方法で装いを凝らす必要がある。もちろん、私が何について話しているかお解かりでしょう」。もちろん。すべての宗教のように、キリスト教も、特に成功した連鎖手紙の例なのだ。他に何と言えるのか? 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

   ジョン・ホーガン「科学の終焉」より


…他にも劇中、無神論者側の主張は意外にマトモに扱われています。 
こういうトコはわりと良心的で好感が持てますね。 
もっと無茶苦茶なことを言わせて藁人形論法に持ち込むかと思ったのに…逆になんだかガッカリ。 

問題はクリスチャン側の主張があまりにgdgdな内容だということで、要するに自爆もいいトコなんですよ。 



ジョシュの反論 
◉「なぜ神を憎むのか?」 

教授の反論 
◎「神は俺から全てを奪いよったんやー!」 

※ちなみに教授は12歳の時に母をガンで失っていますが、神は救ってくれず…あとクリスチャンの嫁に絶賛逃げられ中です。 


◉「存在しないものを憎めるのか?」 

  ↓ 
どんなものだって想像はできます。 
存在しないものを信仰することすらできますからね。 



以上で議論は終了。 
で、評決を取った結果、なんと全員が「神はいる」と判断。 
ジョシュの勝利です。 

ちなみにこの作品、青春映画としての出来は決して悪くはありません(良くもないけど)。 
でもここのところだけ実に奇妙なんですよ。 

主人公が勝つのは理解できます。 
どんな映画であれそれが普通だし、ましてやプロパガンダ映画なのですから。 
しかしプロパガンダであれ、それを普通の映画のフォーマットに落とし込む以上はちゃんと映画の作劇法に乗っ取っていくべきだし、実際ここまでわりとちゃんとそうしています。 
ですが普通、主人公が何かの競技で相手に勝つには何かそれなりに納得のいく「ドラマツルギー上の理由」が必要でしょ~? 

別に何だっていいけど、「短期間ながら謎の東洋人のジジイに特訓をつけてもらった」とか、「実は生き別れの父親がその世界では伝説的な人物でその才能を受け継いでいた」とか、「てめーはおれを怒らせた」とか、普通は何かあるやろ。 

ところが本作にはそれが全くありません。 
ただの学生が図書館に通って本を読み、あれこれ考えて演説したら、哲学科で無神論の講義を受けている学生が全員、説得されてしまうのです。 
ふしぎ! 
これも神のご加護か…。 
あるいは 
「無神論なんてインチキ理論はキリストの愛という真実を知れば学生にだって簡単に論破できるシロモノなんだよ!」 
ということなのかな。 
その割に現実の世界では一向に勝利を収めていない様ですが。 



表決の後、たじろぐ教授の前で学生たちは一斉に 
「神は死んでません」 
「神は死んでません」 
とつぶやき始めます。 
なんじゃそら。 

ちなみにこの映画、原題は『God's Not Dead』です。ポスターを見れば判る通り、『God's Dead』(「神は死んだ」)に「Not」を後付けする形で「神は死んでいない」としたのですね。 

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…「~は死んでいない」っていう表現、普通は死んだと思われているものにしか使わないよね。 
こんなトンチキな演出する暇があるなら、そもそもどうして神は死んだとされているのか、ちゃんと考えた方が良いと思うよ? 

で、話としては主人公の勝利ですが、他にサブエピソードとしてこんな描写があります。 

◉イスラム娘は隠れキリシタンがバレて家を追い出される。 

  ↓ 
なにそれ宗教の非寛容性を批判してんの? 
同じアブラハム宗教なのに「イスラム教<キリスト教」という図式ひどくね? 

なお、行き場のない彼女はプロテスタントの信者に保護され、教会のイベントに出席したりしますが、どこに住みどうやって生活しているかは謎。 


さらに終盤ではいろんな奇跡が起こります。 

◉車のバッテリーがあがり、業者に何度も代車をよこしてもらうも、何故かどれもバッテリーがダメ… 
ところが神に祈ると急に最初の車のバッテリーが回復
! 

  ↓ 
…ここまでトラブルが続くもんかね!? 
それならそれで、「連続でバッテリーがダメになる」という奇跡を起こす、という神の介入があったのでは? と考えてもよさ気なものですが…
これに巻き込まれた牧師は異常にポジティブなので、出発できなくても「まぁいいじゃん」と気にしていません。 
トラブルになっても気にせず、解決したら「神のおかげだ!」… 
神が悪である証拠はカウントせず、善である証拠だけカウントしとったらそら「神は善なる存在」ってなるよ。 


◉認知症のおばあちゃんが急にいいことを言う 

  ↓ 
…まだら認知症(血管性の認知症に多い)か作話じゃね? 
ちなみにビリーバーが持ち出す「神を感じた瞬間」ってこの程度の、偶然でも説明できる話が多いよね。 


◉教授は逃げた嫁を追いかけ、クリスチャン・バンドのコンサートに向かう途中でいきなり交通事故に。 

  ↓ 
またしても無神論者のみを不幸が襲います。 
クリスチャンはバッテリーあがりとかで済むのにな! 

さらにたまたま通り掛かったポジティブ牧師が 
「即死しなかったのは…転向するチャンスが与えられたってことなんだよ!」 
とか超前向き発言… ΩΩΩ<な、なんだってー!? 
殺しにかかっておいて改宗させてから死なせるなんて神の慈悲、恐るべし。 

そして教授は改宗してから死亡…。 
教授の死体を前にポジティブ牧師は 
「今夜の全ては祝福に通じていた…苦痛はほんの一時だけだ」 
と笑顔でご満悦。 
こえーよ。 

「ダーウィンがいまわの際に神に許しを乞うた」というインチキ伝説もあるし、クリスチャンって無神論者が転向するフィクション好きよね~…。 


ラストはクリスチャン・バンドのライブ。 
ミュージシャンが「みんな、『神は死んでいない』のメールを知り合い全員に一斉送信しよう!」と呼びかけてエンディングへ。 

最後にテロップが出ます。 

『ムーブメントに参加しメールを送りましょう』


迷惑なスパムメールですね。 
知り合いから届いたらその場で着信拒否モノです。 
さらにもう一発テロップ。 

『この映画は全米の大学の数々の訴訟事件に触発されて制作された』

触発…? 
実話やったんちゃうんかい!? 
まぁ映画で「実話がベース」とかいうのは大抵、胡散臭いので最初から信じてなかったけどさ。 


で、教授の死からバンド演奏までの間にこんな描写も。 

◉無神論者の女の子はガンに侵されますが、クリスチャン・バンドのミュージシャン達に勇気づけられます。 

   ↓ 
教授の母親といい、無神論者周辺にだけガンが多発してるトコに偏りを感じます。 
「バカめ、神を信じないからだ」とでも言いたいのでしょうか。 

ちなみに彼女はジャーナリスト志望で、ネット上では既に有名人。 
車には『肉は殺し』『アメリカンヒューマニスト』『I LOVE 進化論』のバンパーステッカーを貼っています。 

そんな彼女は映画の冒頭で、許しがたいと思っているある人物にインタビューを行います。 
相手は狩猟が趣味で、水鳥をおびき寄せる笛を売って儲けた人物。 
彼は熱心なクリスチャンで、インタビューにも気さくに応じ、悪びれもしません。 

ここの描写、典型的で面白いですね。 
熱心なクリスチャンのステロタイプは政治的には保守派で銃(と全米ライフル協会)が大好き。 
神は人間のために自然を作り給うたし、そこからいくらでも好きなだけ取って良いと許可もくれているので狩猟にも肯定的です。 
「自然はいくらレイプしてもOK!」ってサラ・ペイリン(「保守派のバービー人形」の異名を持つ女性議員)も言ってたし。 

一方、無神論者のステロタイプは進化論を信じ、世俗的ヒューマニストであり、動物の殺戮に反対し、菜食主義を掲げるインテリのリベラルです。 

いくらなんでもここまでステロタイプな奴、いるかよ!? 
と思ったけど何のことはない、私がわりとそうでした。 


【ステロタイプな無神論者の図】 

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なんか↑コレ、中学校で配られたりした「お子さんはこんな格好をしていませんか?」という非行化防止ビラみたいですね。 
ウンコ座りのヤンキーやスケバンの絵が描いてあるやつ。 



ちなみにこういった特定の思想のステロタイプを描いた作品として『女性鬼』という超B級なホラー映画があってですね… 

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ヒロイン(モンスターも兼任)はVagina dentata、つまり「歯の生えた膣」を持つ訳ですよ。 
セックスすると相手のちんこを大切断。 
でも物語冒頭、本人もそのことに気付いていません。 
つまり処女です。 

この「処女」に説得力を持たせるため、ヒロインは純潔団体に入っているという設定。 
なので、ヒロインが熱心なクリスチャンだったり、進化論に対して嘲笑的だったりする描写があります。 
クリスチャンと純潔主義と反進化論には親和性があり、一種のミーム複合体を形成しているんですね。 
そんなトコまでちゃんと描写していて感心しましたよ! 

さらに彼女は自分のアソコに歯があることに気付き、「vagina dentata」でぐぐってみたりします。 
で、自分が数々の神話や伝説に登場し、最後には成敗されちゃうモンスターであることに気付くのですね。 
スゲェ! 
ちゃんとヴァギナ・デンタータの文化史について触れてるトコがスゲェ! 



…とか書くとスゲェ面白そうですが、内容は当然、超地味です。 
だって直接描写は一切ナシで何本か指やちんこがもげるだけなんだもん。 

しかもヒロインは「コイツちんこもいだる!」と思った相手といちいちセックスしなきゃいけないんですよ? 
肉を切らせて骨を断つ、というか「肉を与えて棒を断つ」という荒業。 
もっと自分を大事にして! 
…もしかして「復讐は自分をも傷つける」という教訓かとも思ったのですが、そんな高尚なテーマ性はなさげです。 


あとヒロインの性器に歯が生えた理由ですが、一切解説はありません。 
でも、舞台となる街の背後に常に原発が映り込んでいます。 
原因は放射能…。【註3】 
…話、粗いな! 
昔の怪獣映画かよ。 

しかし怪獣映画や神話のセオリーと異なり、「怪物」たるヒロインが倒されることなくエンディング。 



ちなみにヴァギナ・デンタータはもちろん直接描写できない訳ですが、被害者の死体を調べた検死官が「遺体に残された歯はヤツメウナギに似ている」みたいな話をするシーンがありまして、えらい直接的なメタファーやな~と感心しました。 
この映画の製作者、いろいろ判ってるなぁ…。 

あ、でもホラー映画としてはもう、ほんっとに糞面白くないので観なくていいです。 













【オマケ】 

ちなみにヤツメウナギの歯というのはこんなのです(以下、人によってはグロ画像、もしくはエロ画像なので注意)。 






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種によって歯の形や大きさ・配列が違うらしく、それぞれに美しいので、いくつか貼っておきます。 

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この辺は基本的にヒマワリの種的な配列…フィボナッチ数列がなんちゃらとかいうアレでしょうか。 

知らんけど。 


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歯の生え方は種により異なるみたいですね。




【註3:放射能】 

「放射線」や「放射性物質」ではありません。昔の怪獣映画みたいに「怪物の誕生」を無理矢理説明するには、ここはあくまで「放射能」です。 




(00:15)

2022年06月22日


『神は死んだのか』という壮絶なキリスト教原理主義プロパガンダ映画を観てみました…が、ツッコみどころがあまりに多かったのでズギャアアアっと大紹介。 
ストーリーはこんな感じ。 
ちなみに実話がベースという触れ込みです。 



主人公のジョシュはクリスチャン。 
大学で哲学の講義を取ります。 
ところが教授はゴリゴリの無神論者。 
受講生全員に「神はいません」と書いてサインを入れ、提出する様に指示する暴君っぷり。 

クリスチャンのジョシュはこれを拒否。 
教授は「では3回の講義で20分ずつ与えるので神の存在を証明してみろ」と言い出します。 
60分演説し放題って…教授、結構いいやつじゃねぇか! 
ちなみに判定法は受講生による多数決。 

ジョシュの「神の存在証明」、内容は↓こんな。 



【ジョシュのプレゼン 第1回 】


◉「神がいると言う証明はできないが、神がいないと言う証明もできない」 
◉「『創世記』は宇宙が無から生まれたとしている。これはビックバン理論に合致する」 
◉「聖書は正確だった。その間2,500年間 科学は間違っていた」 
◉「無から有は生まれない。無神論者はそれ(生命の起源)を例外扱いしていた」 

◎学生からの質問 
「ドーキンスは『じゃあ神を作ったのは誰よ』と言ってるよね?」 

ジョシュの反論
◉「神が何かに作られたと言う前提はキリスト教の教え方に反するので意味がない」 
◉「宇宙があなたを作ったのなら、宇宙を作ったのは誰なのか? すべてはどう始まったのか、神抜きでの説明は無理だ」 

教授からの反論 
◎「ホーキングの宇宙の自発的創造については触れないのか?」 

ジョシュの反論 
◉「それでも僕の信仰心は変わらない」 


【ジョシュのプレゼン 2回目】

◉「ホーキングの『神はいらない』発言について数学者レノックスはこう言っている。 
『これは循環論法だ。[存在する必要に迫られて自らを創造した]というのは[スパムは別の食べ物にないすばらしい味だからこそ最高の食べ物]というのと同じで論点先取だ』」 

教授からの反論 
◎「お前ホーキング ディスってんの?」 

ジョシュの再反論 
◉「ホーキングは哲学は神だとも言ってますけど?」
◉「進化論は生命の起源を説明していない。 ダーウィンは化学物質を含む水に電が落ちて生命が誕生したと主張した。 だが彼は『自然は飛躍しない』とも言っている。 しかしストロベルの指摘によれば生命の歴史を24時間とするとラスト90秒で大半の動物が現在と変わらない姿で出現している。 ほぼ一瞬で自然は大ジャンプしている。創世記通りだ。 


ジョシュのプレゼン 3回目 

◉「なぜ悪はあるのか? 人間に自由意志が与えられているからだ」 

教授 
◎「都合がいいな。 
いつか悪を排除しよう、だがその日まで戦争や貧困、津波やエイズに何とか対処しろってか」 

◉「道徳的絶対主義や。クリスチャンは善悪はっきりしてるで? 道徳的指針は神や!」 

教授 
◎「無神論者は道徳的でないと?」 

◉「違う、道徳的である理由がないと言っている。この議論かて無神論が正しかったら意味ないで? 人間も金魚も変わりないってことやもん」
◉「立場を利用しての押し付けやめろや」 

教授の反論 
◎「それは縛りを解くため。宗教は心のウィルスや! しかもキリスト教は弱者を狙うところが悪質やん」 

ジョシュの反論 
◉「なぜ神を憎むのか?」 

教授の再反論 
◎「神は俺から全てを奪いよったんやー!」 

ジョシュの再々反論
◉「存在しないものを憎めるのか?」 




…以上です。 
では早速ツッコんでいきましょう。 



●「神がいると言う証明はできないが、神がいないと言う証明もできない」 

  ↓ 

はいはい 悪魔の証明 悪魔の証明 

…のっけからコレかよ! 

何かが「ある」ことは簡単に証明できますが、「ない」ことは証明のしようがありません。 
これを『悪魔の証明』と呼びます。 
白いカラスがいることを証明するには実物をたった1羽連れてくるだけで済みますが、白いカラスがいないことは一体どうすれば証明できるというのでしょうか? 
したがって「ある」と「ない」は対等ではなく、「ある」と主張する側がその挙証責任を負うのです。 
神の存在証明を果たす責任があるのは信者の側です。【註1】 

のっけから「神がいると言う証明はできない」と自分から言い切っちゃってますけど大丈夫…? 


◉「『創世記』は宇宙が無から生まれたとしている。これはビックバン理論に合致する」 

  ↓ 

はいはい 柔道論法 柔道論法 

科学の成果を真っ向から否定しておいて、都合の良い時だけ科学の権威を振りかざすとは一体どういうつもりなのでしょうか。 
相手の力を利用する『柔道論法』です。 


◉「聖書は正確だった。その間2,500年間 科学は間違っていた」 

  ↓ 

はいはい チェリーピッキング チェリーピッキング 

それ都合の良いところだけを摘み取ってますよね? 
『チェリーピッキング』です。 
他に科学が間違っていて聖書が正しかった例は一体いくつあるのでしょうか? 
そしてその逆の例は何千ヶ所? 

それに間違った推論プロセスに基づいて言ったことがたまたま当たったからといって「その推論が正しかった」ということにはなりません。 
例えば「鉄は羽根より重いから速く落ちるだろう」という推論は結果は合っていますが正しくはありませんよね? 羽根がゆっくり落ちるのは空気抵抗のせいであって、軽いからではありません。真空中では同時に落ちます。

さらに自己修正能力は科学の美点です。 
科学は自身に間違いがある可能性を認め、より良いものに更新され続けています。 
全知全能、すなわち無謬を前提とし、誤りを認めたがらないどこかの宗教とは違います。 



◉「無から有は生まれない。無神論者はそれ(生命の起源)を例外扱いしていた」 

  ↓ 

え、有神論者は神という特大の「例外」を持ち込んでるのに…? 
それについさっきは「宇宙が無から生まれた」とか言ってませんでしたっけ? 


◎学生からの質問 
「ドーキンスは『じゃあ神を作ったのは誰よ』と言ってるよね?」 

ジョシュ 
◉「神が何かに作られたという前提はキリスト教の教え方に反するので意味がない」 


  ↓ 

いや、それって重要な問題を見落としてるのを指摘されてるのに「俺らはそれについては考えないことにしてるんだ」って言ってるのと同じですよ? 

あと 
「複雑で合目的なデザインは勝手に生えてきたりしないので何かに作られた筈だ」 
と言い出したのはキリスト教の側です。 
18世紀にウィリアム・ペイリーという神学者が『自然神学』という本の中で 
「丘の上に石が落ちてても特に疑問はないが、時計が落ちていたら時計を見たことがない人でもそれが何かの目的のために作られたもので、製作者がいることを確信する筈だ。同様に、生命という複雑なものには必ずデザイナーがいる。つまり神だ」 
みたいな主張をしたのです。 

ドーキンスはこれを踏まえた上で 
「じゃあ神はもっと複雑なんだから、そのまたデザイナーが必要だよね?」 
と言い返したのですね。 


ちなみにこの映画の中でドーキンスに反論している部分はこれだけです。 
後は教授が他の教授陣と内輪で「あいつドーキンスをディスりやがったよ!」とか言ってる時にクリスチャンの妻が乱入。 
「あなた、別れるわ!」と言われてしまいます。 

…どうもドーキンスを否定する根拠がなかった模様(あれば描いているはず)。 
それでこの意趣返し…子供かよ!? 




◉「宇宙があなたを作ったのなら、宇宙を作ったのは誰なのか? すべてはどう始まったのか、神抜きでの説明は無理だ」 

   ↓ 
だからなんで宇宙の起源は気にするのに神の起源は気にしないのよ!? 

あと「神抜きでの説明は無理」というのは個人的な猜疑心に過ぎないよね? 
オカルト畑の人はしばしば、どれだけちゃんと説明しても 
「そうはいってもNASAは何か隠してるんじゃないの?」 
「そうはいっても死ねばなんかあるんじゃないの?」 

と個人的な猜疑心に基づいて疑ってきますが… 
こちらにはそんな根拠のない、漠然とした印象から出た話に付き合う理由はないのですよ? 


あとしばしば「なんであれ、全ての原因を神と呼んでいるだけ」とか言っちゃう人がいますが… 
…それはキリスト教的な人格神じゃなくてよくね? 



教授からの反論 
◎「ホーキングの宇宙の自発的創造については触れないのか?」 

ジョシュの反論 
◉「それでも僕の信仰心は変わらない」 


  ↓ 

え、反論できなくても態度を変えないの…? 
どんな欠点を指摘されても自説の誤りを認めないのは「私は根拠なくこの説を信じてます」という非論理的な態度であり、盲信です。 
大体、「それでも僕の信仰心は変わらない」って要するに「私は信じます」という、ただの信仰告白やん…。 
非信者がそんなものにいちいち付き合うとは思わないでね。 

宗教の人は追いつめると結局のところ、 
「信じたいから信じている」 
「信じているから信じている」 
「とにもかくにも信じている」 

というのを信仰の根拠としがち。 

でも 
「信じたいから信じている」 → 現実と願望の混同 
「信じているから信じている」 → 単なる同義反復 
「とにもかくにも信じている」 → ただの信仰告白
 
であり、根拠にはならないんじゃないでしょーか。 



◉「ホーキングの『神はいらない』発言について数学者レノックスはこう言っている。 
『これは循環論法だ。 
[存在する必要に迫られて自らを創造した]というのは[スパムは別の食べ物にないすばらしい味だからこそ最高の食べ物]というのと同じで論点先取だ』」 


  ↓ 
あ~、オカルトの人って科学から「それって循環論法じゃね?」「論点先取じゃね?」などとツッコまれがちなんで、それらの論法を自分たちも使ってみたくなるみたいですね。 
でも生兵法なんで大抵使い方を間違ってます。 


循環論法というのは「Aの根拠はB、そしてBの根拠はAだ」という論法で、根拠が同じ場所をぐるぐる回っています。 
これは結局、煎じつめれば「AだからAである」と言ってるだけで何も説明していませんね。 
具体例を挙げると、 
「聖書は神の言葉である。何故なら聖書にそう書いてあるからだ」 
とか、そういうやつのことです。 

『存在する必要に迫られて自らを創造した』というのは一見すると循環論法に思えますが、これは単に「存在は必然だった」という意味の、レトリカルなキャッチフレーズでしょう。 
このフレーズ以外に全く根拠のない閉じた論法ではなく、キャッチフレーズでは省略されているだけで、外部にちゃんと根拠があれば問題ありません。 

例えば 
「彼氏の部屋は彼女の隣、彼女の部屋は彼氏の隣」 
というタイトルの恋愛映画があったとしましょう。 
この場合、二人の部屋が何階のどこにあるのか、タイトルからだけでは判りませんが、だからといってこういう状況がありえない訳ではないし、劇中で「二人の部屋は2階で一番東の角部屋が彼氏、そのひとつ西が彼女」という描写があれば把握できますよね? 
タイトルだけ見て「それは循環論法だ!」とか言われても困ります。 

キリスト教原理主義者はしばしば 
「ダーウィンの進化論は『最適者が生存する』という理論だが、最適者というのは『生存した者』のことだろう。つまりこれは『生き残るやつが生き残る』という循環論法だ」 
と言い立てますが、これも同じ。 
『最適者の生存』はハーバート・スペンサーが考え出したキャッチフレーズに過ぎません。 
Wikipediaの『適者生存』の項でも 
『ただし比喩的表現であって科学的な用語ではなく、生物学でこのメカニズムに対して用いられる語は「自然選択」である』
とあります。 
そもそも『適応が見られるのに生存しない』といった、進化論が反証される状況も考えうるので『最適者』イコール『生存者』でもないし。 

これは要するに「モテ顔に整形したらモテるはず」というのと同じです。 
一見、「モテる奴はモテる」と言ってるだけの同義反復・循環論法に見えますが、「何がモテ顔か」は外部的に決まります。 
例えばモテ顔を「甘いマスク」とすると、「モテ顔に整形したらモテるはず」というのは「甘いマスクに整形するとモテる筈」となり、どこにも循環論法はありません。 
しかも「モテ顔に整形したのにモテなかった」という場合もありえるので、検証もできますよね? 



教授からの反論 
◎「お前ホーキング ディスってんの?」 

ジョシュの再反論 
◉「ホーキングは哲学は神だとも言ってますけど?」 

  ↓ 

はいはい レトリック レトリック 
あとコレ↓な。 

「アインシュタインはときどき、神の名を引き合いに出したので(そうする無神論的科学者は彼だけではない)、むりやり曲解して、これほどに高名な思想家が自分たちの側に立つと主張したがる超自然主義者たちの誤読を招き寄せることになった」 ― リチャード・ドーキンス 



◉「進化論は生命の起源を説明していない。ダーウィンは化学物質を含む水に電が落ちて生命が誕生したと主張した。だが彼は『自然は飛躍しない』とも言っている。しかしストロベルの指摘によれば生命の歴史を24時間とするとラスト90秒で大半の動物が現在と変わらない姿で出現している。ほぼ一瞬で自然は大ジャンプしている。創世記通りだ。 

  ↓ 

『ダーウィンは化学物質を含む水に電が落ちて生命が誕生したと主張』?

ダーウィンそんなこと言ってない。 
それはミラーの有名な実験では…。 
あと現在の生命誕生シナリオではその説は否定されてます。 

大ジャンプの話は地質学的なタイムスケールで言えば「一瞬」で起きますが、実際には何百万年もかかってゆっくりと漸進的に進化していく訳で何も問題はありません。 
また進化は基本的に保守的なもので、変化よりはむしろ安定が特徴です。 
長い安定期があり、時おり(地質学的タイムスケールだと)一瞬のうちに変化してまた安定に入ると考えられています(断続平衡説)。 



あと聖書の記述は膨大でおまけに一貫性がなく、矛盾や文書ごとの食い違いがあるので、そのうちのひとつが「当たったー!」とか言われましても。 


「創世記通りだ」というのはおなじみの「柔道論法」ですね。 

つーか、 
「生命の歴史を24時間とするとラスト90秒で大半の動物が現在と変わらない姿で出現している」 
というのが 
「創世記通りだ」 
というのがさっぱり解りません。 

「生命の歴史を24時間とするとラスト90秒で大半の動物が現在と変わらない姿で出現している」 
というのを文字通りの意味で肯定しているのだとしたら…進化史を受け入れちゃってるよね? 

いやいやわかってる、結局は「神による創造」を主張したいんでしょ? 

では 
「生命の歴史を24時間とするとラスト90秒で大半の動物が現在と変わらない姿で出現している」 
を少しアレンジして 
「生命の歴史を24時間とするとラスト90秒で大半の動物が現在と変わらない姿で創造された」 
にしてみましょう。 
…なんか主張自体が矛盾してますよね。 
生命誕生後にまた生命が誕生するって何だよ。 
それとも神はまず単純な生命を創造し、それを何十億年も放置してから最近になって急に複雑な動物を作ることにいそしみ始めたんでしょーか。 
締切間際になってから書き始める大学生のレポートかよ。 

…勿論、ここでキリスト教原理主義者は 
「うむ、神は実際、数十億年待ってから創造を再開されたのだろう。 
その理由は我々人間などには理解できないが、神には何か計画がおありなのだ」 
などとお得意の言い逃れを披露することも出来ます。 
でも聖書にはそんな言い訳、書いてないよね? 
必死になって「無理矢理こう考えればつじつまが合わなくもない」という、ポストホックな(特別製の)説明を乱発するのはいいかげんにしましょう。 
それに神の意図が人間の理解を超えているなら、どうして「神は善良だ」などと言えるのでしょう? 


さらに「ラスト90秒」が全く合ってない件について。 
キリスト教原理主義の中でも『若い地球派』の皆さんの場合、聖書の記述を足し合わせて「地球が創造されたのは6千年前」と主張しておられます。 
しかし生命の歴史を24時間とすると1秒はおよそ4万4千年…【註2】 
創造が行われたのはラスト90秒どころか、0.14秒なんですが…。 
これが「創世記通り」…? 

「地球は6000歳」という主張を行わない『古い地球派』の場合でも特に「ラスト90秒で動物たちが作られた」とは主張していないし、聖書にもそういう記述はありません。 
ちなみにキリスト教原理主義者は 
「進化論による生物の出現の順序と創世記の生物が創造された順序が一致している」 
と主張することもあります。 
…これまた「柔道論法」の果てにうっかり進化論を認めとるやんけ! 
しかも聖書には「魚」「鳥」「獣」くらいのざっくりしたことしか書いてないし(脊椎動物だけかよ)、創造の順序にも記述によってばらつきがあります。 


OK、OK。 
じゃあ最大限、好意的に解釈してみましょう。 
「進化の事実も出現の年代も受け入れないけど、『現生の動物の大半は比較的最近になって出現した』という部分だけは共通している」 
と言いたいのかな…? 

…それ共通部分ほとんどないよね? 
「長く続いた進化の結果、比較的最近になって大半の動物が現在と変わらない姿になった」 
というのと 
「比較的最近になって大半の動物が現在と変わらない姿で神によって創造された」 
というのは全く違うことだし。 

しかも出現の原因が進化であることも年代も認めないのであれば、キリスト教原理主義者にとってはそもそも 
「生命の歴史を24時間とするとラスト90秒で大半の動物が現在と変わらない姿で出現している」  
という説自体に全く根拠を見いだせないことになります。 
そんなシロモノとごく一部が一致するからといって、なんで鬼の首を獲ったみたいに騒ぐのか…。 
…結局、科学の権威にすがった「柔道論法」でしかないよね。 


それから、ストロベルさんて誰? …と思って調べたところ、聖書関係の本ばかり書いてるジャーナリストでした。 



◉「なぜ悪はあるのか? 
  人間に自由意志が与えられているからだ」 

  ↓ 

なんで「神の気に喰わないこともできる」という謎仕様にしたのか、その意味がわからへん…。 
製造物責任って言葉、知ってるかな…? 



教授 
◎「都合がいいな。いつか悪を排除しよう、だがその日まで戦争や貧困、津波やエイズに何とか対処しろってか」 

  ↓ 

教授ナイス突っ込み! 



◉「道徳的絶対主義や。クリスチャンは善悪はっきりしてるで? 道徳的指針は神や!」 

教授 
◎「無神論者は道徳的でないと?」 

◉「違う、道徳的である理由がないと言っている。この議論かて無神論が正しかったら意味ないで? 人間も金魚も変わりないってことやもん」
    

  ↓ 

ほほ~、非クリスチャンには道徳的である理由がないのかぁ…。 
ではクリスチャンが殺人を行わないのはどうしてでしょう。 
それが神の命令だから? 
じゃあ神が殺人禁止命令を出さなければ殺人を犯すってコト…? 
あるいは神が「殺せ」と命令すれば嬉々としてその声に従うってコト…? 
どっちにしても全く道徳的ではないんですが…。 

え? 
もちろんクリスチャンは神の命令抜きでも最初から道徳的です、って? 
それは結構なことです。 
でもそれって結局、道徳は神とは関係なく存在するってコトですよね。 
じゃあ神など持ち出さなくとも道徳的に生きることは出来るんじゃないですか? 
なのに何故、道徳はクリスチャンの占有物だなどと傲慢にも主張できるのでしょうか? 



『もしあなたが神が不在であれば泥棒・強姦・殺人が多発するであろうと主張するのならば、あなたは自分が不道徳なことを暴露しているのであり、それはいいことを聞いたから我々は今後あなたのことは大きく避けて通らせていただく』
     ― マイケル・シャーマー ー

(神がいなかったらどうして善人でいられるのか?という問いに対して) 
『それは道徳ではなく単なるご機嫌取りかゴマすりであり、空にある巨大な監視カメラや、あなたの頭の中であらゆる動きや卑しい考えさえ監視している盗聴器を気にしているだけではないか?』
    ― リチャード・ドーキンス ― 

『人類の一番の悲劇は、道徳が宗教にハイジャックされたことだ』
    ― アーサー・C・クラーク ― 

「私たちが道徳的であるために神を必要とするというのが、たとえ真実であったとしても、それで神が存在する可能性がより高くなるわけではなく、単により望ましくなるだけのことにすぎない」 
    ― リチャード・ドーキンス ― 









(長くなりすぎたので続く) 








【註1:悪魔の証明】 

悪魔の証明については以下のエントリを参照。

『ネトウヨさん「悪魔の証明ガー!」←は?』
http://wsogmm.livedoor.blog/archives/10210701.html


【註2:1秒はおよそ4万4千年】 

生命の歴史を38億年として計算。 
そもそも「創造論は科学と合致する」というのがキリスト教原理主義側の主張なので、科学側の数字を使うのは当然です。 
別の数字を使いたいならその数字と根拠が必要ですが、キリスト教原理主義側には具体的な数字は『若い地球派』の「地球は6000歳」しかありません。 
矛盾だらけのキリスト教原理主義者の主張を最大限好意的に解釈し、「地球の歴史のごく最近になって動物が創造された」という意味だとして、ここに「地球は6000歳」をあてはめると… 
動物が創造されたのはここ数百年くらい、ということに…。 



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