さて、今回は↓このエントリの続きです。
『ウヨちゃん作文発表所「アゴラ」創設者の池田信夫、なぜか異常に猿をディスるという奇行にはしってしまう』
https://wsogmm.livedoor.blog/archives/27688006.html
池田信夫の新刊がだいぶアレ、という話をしてきましたが…
そのヤバさはここからが本番。

(※書影は当該書籍より引用)
前回のは
「無知な人が進化論について語ったらこうなった」
的な間違いでしたが…
今回のは
「進化論について相当深い勉強をしたにも関わらず、無知なままだった」
という珍しいタイプの間違い。
池田信夫は↓こう書いてます。
p.29
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しかし一九九〇年代に、ハミルトンの理論でも説明できない現象が報告されるようになった。中でも有名なのは、細菌の感染についての実験である。細菌が宿主に感染し、その栄養で繁殖する場合、繁殖力が強い利己的な個体ほど多くの子孫を残すが、あまりにも繁殖力が強いと宿主が死んで、コロニー全体が滅亡してしまう。だからほどほどに繁殖して宿主ともども生き残る利他的な細菌が生き残る、というのが新しい「集団淘汰」の理論の予想だった。
それに対して、血縁淘汰理論が正しければ、繁殖力が最大の利己的な個体が勝つはずだ。これは医学的にも重要な問題なので、世界中で多くの実験がおこなわれたが、結果は一致して集団淘汰理論を支持した。最初は細菌の感染力が強まるが、宿主が死ぬと細菌も死ぬので感染力は弱まり、菌の広がる範囲が最大になるように感染力が最適化されたのだ。
個々の細菌にとっては感染力を弱めて宿主を生かす事は利他的な行動だが、その結果、集団が最大化されて遺伝子の数も最大化される。同様の集団レベルの競争は、社会性昆虫のコロニーにも広く見られる。このように生物の集団は個体レベル(血縁淘汰)と集団レベル(集団淘汰)で進むというのが、「多レベル淘汰」と呼ばれる新しい進化理論である。
従来の理論では、生物は遺伝子の複製と言う一つの目的を最大化する機械だと考えられていたが、新しい理論では生物は個体と集団という二つのレベルの合計で適応度を最大化すると考えられている。これは生物学では論争中の問題で、集団淘汰も最終的には個体レベルの淘汰として説明できるという批判も多いが、社会的な行動を説明する上では、個体と集団のレベルを区別することは重要である。
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『中でも有名なのは』って、全然有名ちゃうし。
そもそもこの『多レベル淘汰』(マルチレベル選択)は進化論というよりは科学哲学の領域に属するトピックで、殆どの進化生物学者は興味を持ってません。
現在、マルチレベル選択を分かりやすく解説した日本語の文献はほぼなく。
たまにあっても、最も信頼できる進化論ブログ『shorebird 進化心理学中心の書評など』でボロカスに批判されてたり。
実際、池田信夫が紹介しているこの実験も、本書の注によればソースはソーバーとD.S.ウィルソンによる未邦訳の文献やんけ!
しかもこの実験、
◉マルチレベル選択の予想→ほどほどに繁殖して宿主ともども生き残る利他的な細菌が生き残る
◉血縁選択理論の予想→繁殖力が最大の利己的な個体が勝つ
って勝手に仮定してるやん。
でも血縁選択説って、例えば社会性昆虫などで自らは繁殖しない個体がいる真社会性の進化を説明できる理論やで…?
そもそも自己犠牲的・利他的な行動を説明するために発展してきた理論やろ…
大体、大抵の病原体って少数が宿主に入り込んで爆発的に増殖するねんから、特定の宿主の体内にいる病原体はほぼほぼ同じ株で構成されてるやないですか。
つまり
「たまたま弱毒化して自己増殖率を抑えた利他的な株が出現する→宿主が死なないので、結果的にこの株は成功する→ 自分だけ増殖しまくる利己的な株が出現すると詰むけど、同一の株で構成されてるのでそういうことは滅多に起きず、利他的な株同士で協力して成功する」
というシナリオな訳ですよね。
つまりその利他的な株から見れば、
「周囲にいるのは皆さんどうせ僕と同じ株ばかりなんだから、皆が繁殖率を抑えてる間に抜け駆けして増殖しちゃう『利己的な株』は出現しなさげだな。
じゃあ弱毒化しといたのは正解だったな、メリットあるけどデメリットないやん」
ってコトですね。
…血縁者同士で協力しあってるやん。
それはもう血縁選択やろ。
実際、先ほどの文章の最後の方で
『集団淘汰も最終的には個体レベルの淘汰として説明できるという批判も多い』
と認めてしもてたよね。
さらに池田信夫自身が全然違うトコの注に↓こっそりこう書いてます。
p.219
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ただ淘汰の単位は個体で、集団の生き残りは個体が生き残る条件だから、多レベル淘汰は結果的には血縁淘汰に帰着するので、ほとんどの場合に個体とは別の集団の利益を考える意味はない、というのが多数の生物学者の意見である。ウィルソン(前掲書)の訳書の解説(巌佐庸)を参照。
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…マルチレベル選択が割と否定されてんの、認めてはりますやん。
血縁選択と同じだとも認めてるし。
つまり↓こういうコトです。
「あのー、オカンがね、好きな進化理論があるらしいんやけど、その名前をちょっと忘れたらしくてね。
でまあ色々聞くんやけどな、全然分からへんねんな」
「分からへんの? ほな俺がね、オカンの好きな進化理論、ちょっと一緒に考えてあげるから、どんな特徴言うてたかってのを教えてみてよ」
「あのー、個体に働く選択と、群に働く選択を、どっちも計算に入れる理論やって言うねんな」
「おー、マルチレベル選択やないかい。その特徴はもう完全にマルチレベル選択やがな。すぐ分かったやん、こんなんもー」
「でもこれちょっと分からへんのやな」
「何が分からへんのよー」
「いや俺もマルチレベル選択やと思うてんけどな、オカンが言うには、その理論には血縁者同士で仲良くする要素が欠かせへんって言うねんな」
「あー、ほなマルチレベル選択と違うかー…血縁者同士のイチャイチャで説明すんのはもう血縁選択やもんね」
「そやねん」
「ほなマルチレベル選択ちゃうがなこれ。ほなもう一度詳しく教えてくれる?」
「オカンが言うには、その理論は群選択に似てるけど違うやつやって言うねんな」
「マルチレベル選択やないかい。その特徴はもうマルチレベル選択でしょう」
「でもオカンが言うには、その理論は典型的には血縁選択と同値やって言うねんな」
「ほなまともな理論ちゃうかー。独自の予測ができてこその理論やもんね。別の理論と実質同じ理論なんかホンマモンの理論ちゃうからね、俺の目はごまかされへんよ。俺ごまかしたら大したもんや。それはもう血縁選択ちゃうか?」
「でもオカンが言うには、その理論は血縁選択ではないって言うねんな」
「ほな血縁選択ちゃうがな。オカンが血縁選択ちゃうって言うんなら、それは血縁選択ちゃうやんか。俺が血縁選択って言うてた時、どんな気持ちで聞いてたん?」
「で、オトンが言うにはね、ラマルキズムちゃうかって」
…という訳で、マルチレベル選択はかなり筋悪なのですが、池田信夫は何故こんなマイナーなモン掘り出してまで主張しちゃうのでしょうか?
それは読み進めていくと判明します。
p.33
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人間は利己的な動機と利他的な動機を遺伝的にもち、理性と感情の葛藤に引き裂かれてきた。利己的な欲望から利他的な行動を論理的に導こうとする(ゲーム理論のような)功利主義をエドワード・ウィルソンは否定し、同情、報復、名誉などの感情は利己的な目的に帰着できず、それ自体に進化的な意味があるとした。
こうした感情は利己的な欲望と同じくほとんどの動物にそなわっており、人類の場合はしばしば利己心を圧倒するぐらい強い。それが人類が激しい戦争を繰り返してきた原因である。愛国心のために命を捧げる感情は「利己的な遺伝子」の合理的戦略ではなく、集団を守るメカニズムなのだ。
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↑このあたりで池田信夫が変な理論をわざわざ推す動機が見えてきたよーな…
コレって、
「愛国心はこのマルチレベル選択によって人類に実装されたプログラムなのだ」
とすることで愛国心を正当化したいからでは…?
確かに「個体や遺伝子よりも集団の存続が優先される場合もあるやろ」とするマルチレベル選択は、ウヨちゃん大好き愛国心と親和性がある様に見えます。
しかし悲しいかなツギハギの「物知りお爺ちゃん構文」でしかないので、そもそも仮に愛国心がプログラムされてたとしても正当化はされないというコトが分かってないご様子。
「どうであるか」という事実命題から「どうであるべきか」という価値命題は導けません。
ソレは「自然主義的誤謬」(「ヒュームの法則」違反)です。
「愛国心はプログラムされてる、だから正当化できるんだ」と言うなら、「性欲はプログラムされてる、だからレイプは正当化できるんだ」ことになってしまいます。
池田信夫の「物知りお爺ちゃん構文」はさらに磨きがかかり、混乱を深めていきます。
↑先ほどの文章は↓こう続きます。
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言語も学習によって生まれたものだが、遺伝的にそなわっているのは言語習得能力だけで、言語は遺伝しない。言語が遺伝するなら、すべての人類が同じ言葉を話すはずだが、言語は極めて多様で、親から教わらないと話せない。宗教も言語と同じで「同じものを信じる感情」は集団淘汰でそなわったと考えられるが、「普遍宗教」は存在しない。このような集団能力は人類が生き残る上で重要だった。それを「集団淘汰の法則」と呼ぶと、次のように要約できる。
利己的な個体は利他的な個体に勝つが、利他的な集団は利己的な集団に勝つ。
集団の中では他人を裏切る利己的な個人が強いが、戦争では団結する利他的な人の多い集団が強い。人間の脳の中には、個人的な欲求とともに、集団的な感情が遺伝的に備わっており、両者はトレードオフになっている。文化の進化の中では、個人とは別のレベルで継承される言語や宗教などがあるからだ。個人的な利己心と集団的な利己心のトレードオフの中で、前者を抑制し、後者を強めるのが同族意識である。これは後天的な獲得形質なので、遺伝する事はありえないが、文化的には継承される。これをドーキンスはミーム(文化遺伝子)と呼んだ。
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…あれ?
愛国心をマルチレベル選択で説明してた筈なのに、いつの間にかミームで説明してしもてるやん。
ミーム、つまり文化は説明力がめちゃ高いです。
例えば自殺を「遺伝子のせい」で説明しようとすると、「自殺遺伝子」を仮定しなければなりません。
しかし自殺する個体は生存や繁殖の上で極めて不利なので、そんな遺伝子が広がるとは考えにくいですよね。
しかし自殺を勧める文化ならばミームによって急速に広がり、感染者を死に追いやることも可能です。
実際、『完全自殺マニュアル』がベストセラーになったコトもありますし。
同様に、戦争で真っ先に死んじゃうリスクを高める愛国心などという物騒なシロモノも、文化(ミーム)でなら簡単に説明できます。
だったら訳の分からんマルチレベル選択とか持ち出さなくても、最初から文化(ミーム)で説明しとけば良かったんじゃ…?
しかし池田信夫は何しろ「物知りお爺ちゃん」なので、あちこちで得た断片的な知識をあーでもない、こーでもないと組み上げてみたくて仕方なかったんやろなぁ…
その結果、素人のDIYによる奇怪な建築物が爆誕してしまいましたー。
あと『利己的な個体は利他的な個体に勝つが、利他的な集団は利己的な集団に勝つ』の部分。
コレはマルチレベル選択の主張としては正しいのですが…
普通に考えれば
「集団レベルでは利他的な集団が強いが、個体レベルでは利己的な個体が勝つ」
ということは
「もし利他的な集団があれば有利だろうけど、そういう集団はすぐに利己的な個体に乗っ取られるので、出現することは極めて稀でっしゃろ」
という結果になる筈。
なのにマルチレベル選択説論者は
「個体レベルでは利己的な個体が強いか知らんけど、集団レベルでは利他的な集団が強いのだから、そういう集団はもちろん出現するよね?」
と素朴に考えちゃってない?
例えば
「この患者は薬を飲めば病気が治る。でも薬はめちゃ高価で買えない」
としましょう。
コレは
「薬は病気に勝つが、貧困は患者に勝つ」
という状況です。
普通に考えれば
「ほな病気は治らへんやん」
となるところですが、何故か
「いや、薬さえ飲めば治るんやから大丈夫やん」
と言ってる人がいる、的な。
↑池田信夫のこの文章はさらに↓こう続きます。
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氷河期には地表が氷河でおおわれ、乏しい食料をめぐる争いが日常化していて、人類の人口は数千人まで減ったとも言われる。人々はつねに飢餓に直面していたので、氷河期の特徴を残すアボリジニーなどの未開社会は平等主義で、食物は平等に分け合う。この時期には集団で戦争した形跡はほとんどない。
人間と似た集団レベルの競争は、社会性昆虫のコロニーには見られるが、類人猿は集団で戦う事はほとんどない。強い敵からは逃げればいいからだ。人間でも、狩猟採集社会には戦争の遺跡はほとんどみられないが、定住して農業をおこなうようになってから、戦争するようになった。このとき利己的な個人が戦争に参加しないと、利他的な(集団主義の)集団に征服されてしまう。霊長類の中でも、集団のために自己を犠牲にするのは人間だけである。
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え、戦争の始まりが農業革命以降なら、せいぜい1万年しか経ってないやん。
ほな多レベル選択とやらのおかげで愛国心が進化する時間、ないやん。
このあたりの記述は2018年の池田信夫blogに原型となる記事があるのですが…
【池田信夫blog】
『利他的な集団は利己的な集団に勝つ』
https://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52021399.html
↑そちらでは↓こうなってます。
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こういう「利他的な遺伝子」が文化的に継承される上で、重要な役割を果たしたのが戦争である。狩猟採集民は数十人の小集団で移動して戦争を繰り返し、死者の15%程度は殺されたと推定される。こうした激しい戦争は、2万年前の氷河期の終わりごろまで続いた。
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あれ?
こっちでは戦争はずっと昔からあったコトになってるやん。
…つまり2018年以降に「戦争は農耕が始まってから起きる様になったんやで」という説を耳にして飛びつき、取り入れてツギハギしたという「物知りお爺ちゃん構文」。
なお、↑この記事には他にもツッコみどころが満載。
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ただ淘汰の単位は個体であり、集団が淘汰されることはありえない。この点は血縁淘汰理論と同じで、集団の生き残りは個体が生き残る条件だから、マルチレベル淘汰は血縁淘汰に帰着するともいえる。ほとんどの場合に個体とは別の集団の利益Beを考える意味はない、というのが多数の生物学者の意見のようだ。
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いや、『集団が淘汰されることはありえない』と思うなら、マルチレベル選択を信じたらあかんがな。
でもマルチレベル選択不要派のドーキンスですら
「集団がヴィークル(遺伝子の乗り物)として選択(淘汰)されることはありえなくはない」
くらいは言うやろ。
まぁ
「ただし、選択の単位はあくまでも遺伝子」
と付け足しはするやろうけど。
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しかしウィルソンの理論は、社会を考える上では役に立つ。個人的な利己心と集団的な利他心の葛藤の中で、前者を抑制して後者を強めることが宗教や道徳の重要な機能だ。利他的な感情は獲得形質なので遺伝することはありえないが、文化的には継承される。これをドーキンスはミーム(文化的遺伝子)と呼んだ。
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は?
『利他的な感情は獲得形質なので遺伝することはありえない』
って何やねん!?
ヒトの情動が誰もが持つ普遍的なもの、ヒューマン・ユニヴァーサルだというのはダーウィンの頃から知られた事実やで!?
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農耕社会になると、大集団で定住するために国家によって戦争を抑止するシステムができ、一神教や階級社会が生まれた。国家の規模は、戦争の規模にほぼ比例する。このような社会の進化を考える上では、集団の利益を個人の利益に帰着させる血縁淘汰より、集団の利益が文化的に継承されると考えるマルチレベル淘汰のほうがわかりやすい。
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いや、マルチレベル選択は遺伝についての理論なので文化いっこも関係ない。
文化の継承も考慮に入れる「二重相続理論」というのもあるけど、ソレはマルチレベル選択とは全く別。
池田信夫、ツギハギの「物知りお爺ちゃん構文」を重ねるうちに前人未到のとんでもないトコにたどり着いてはるー!
こんなに偉そうにソレっぽい単語を散りばめといて、こんだけ根っこから何も分かってない人、初めて見ましたー。
しかし池田信夫がこの手の批判を受けるのはコレが初めてではありません。
遥か昔の2007年(ペルム紀)に進化論にめちゃ詳しいNATROM師父(私淑)にむちゃんぽ批判されてはります。
【NATROMのブログ】
『種を守る「利他的な遺伝子」』
https://natrom.hatenablog.com/entry/20070427/p1
↑コレに対して池田信夫が反論した模様。
それに答えたのが↓コレ。
池田信夫からの反論自体は当時の池田信夫側のブログが消えているため、読めない模様。
『池田信夫氏からの反論』
https://natrom.hatenablog.com/entry/20070429/p1
池田信夫は
「NATROM、素人やん。
『種淘汰』というありもしない言葉を使ってるし」
みたいなコトを言ったらしく、↑ココで反論されてます。
は?
『種淘汰』という概念は普通にあるよ。
種の絶滅率の差で説明するやつ。
素人は池田信夫の方でしたね。
そもそもNATROM師父、今はトンデモ医学批判に軸足を移してはりますが、当時は創造論などの反進化論を批判する記事を大量に書いてる日本最強の進化論系論客だったんですけど。
識者相手に素人呼ばわりとか一番カッコ悪いダメムーブやん。
ちなみにNATROM師父は池田信夫とは別に、愛国心を「利己的な遺伝子」で説明しようとするトンデモさんを批判する記事も書いてたり。
『愛国心の遺伝子』
https://natrom.hatenablog.com/entry/20060620/p1
その注釈には↓こうあります。
『自分は犠牲になるつもりはないくせに、やたらと集団のための自己犠牲を賛美して、他の個体に自己犠牲を強いるような利己的な個体はさぞや成功するであろう(皮肉)。』
さらにNATROM師父は2005年の段階で、あまりにもアレすぎる限界ウヨちゃんを延々と追いかけてネタにし続けるという素晴らしい仕事をしています。
当ブログのスタイルは↓この一連のシリーズに影響受けまくり。
【進化論と創造論】
『「理系保守」ブログをウォッチングするためのガイド』
https://natrom.sakura.ne.jp/guide/guide.html
いや〜、↑コレからもう20年経ってしまいましたが…
その後も次々と新手が生まれ続けるウヨちゃんたち。
彼らが↑このレベル(の低さ)を今なお維持し続けているコトには驚きを禁じえません。
アインシュタインは
『無限なものは二つあります。
宇宙と人間の愚かさ。
前者については断言できませんが。』
と言った、とされてますが…
いやぁ、ほんっとヒトの可能性って無限大ですね、愚かしさに関しては。
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wsogmm
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