さて先日、
『陰謀脳: 私たちが真実から目をそむける理由』
という本が面白い、という話をして、本書に載ってる世界のおもしろ陰謀論を紹介しました。
https://wsogmm.livedoor.blog/archives/26694866.html
その中で、ヒトは自分の置かれた状況を正当化するためにとんでもない論理を持ち出す、という例をいくつも並べましたが…
現実に対して最もぶっ飛んだ解釈を施したのは、あの時に紹介した様な、笑えるやつではありませんでした。
本書には↓こんなエピソードが載っています。
◉長崎医科大助教授で放射線医学を専門とし、カトリックでもあった永井隆は、長崎への原爆投下で家族や同僚を数多く失いました。
普通に考えると、いたましさしかないですよね。
しかし彼はこう考えます。
「何故こんなことが起き、何故自分は生き残ってしまったのか?
コレはただの軍事作戦ではなく、大戦という人類の罪のために人々を焼き尽くす、神の崇高な計画だったのだ。
善良で敬虔な浦上教会の信徒たちこそ、神の祭壇に捧げられる犠牲の子羊。
死は大きな名誉なのだ。
そして罪深くて供えられる資格のない自分は生き残ってしまったのだ…。」
うわぁ、原爆犠牲者を「殉教の伝統」という文脈で捉え、語りなおしてはる〜!
コレもまた先日取り上げた「妖精伝承の語りなおしとしての宇宙人」みたいなコトなんでしょーか?
何故か『銃夢』の↓コレを思い出したです。

(※画像は木城ゆきと『銃夢』より引用)
原爆をこんな感じで捉えてたんじゃろか〜。
圧倒的な神の力と意志の顕現、その前になす術もなく吹き飛ぶ人々の日常。
彼が付与したであろう、そんな意味に基けば、それは荘厳で厳粛で、ある意味では狂気的に美しい光景だったのかもしれません。
あともうひとつ思い出すのが、陸軍上等兵・木村久夫の遺書。
コレは戦没学生の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に収録されたことで有名なやつですね。
木村は捕虜虐待の罪でBC級戦犯となり、1946年にシンガポールで死刑になります。
享年わずか28歳。
しかし木村は通訳だったので現地人に名を知られていただけでした。
一方、当事者の上官は罪を認めず、生きて日本の土を踏んでいます。
そして故人の霊前で言い訳を重ねる牟田口ムーブ。
京大に入ったのに学徒動員となり、ようやく終戦を迎えたのに死刑という理不尽の連続。
その逃れ得ぬ運命を何とか正当化しようとした木村はこう書き残しています。
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大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴吏の命ずるところと感知するのである。 日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで行くのである。これで世界人類の気持が少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。
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ちなみに大槻ケンヂが作詞した、筋肉少女帯の『ワダチ』という歌に上記の遺書が引用されてたり。
https://www.oricon.co.jp/prof/202823/lyrics/I065124/
戦争は終わったのに今さら死刑、というあまりにも意味のない死。
それでもそこに無理くり意味を見出すーーというより、意味を与えようとするーーその必死さには涙を禁じえません。
しかしこういう理不尽な死を無理くり有意義だと解釈しちゃう捉え方は珍しいものではありません。
左翼が戦没者を
「戦争によって無意味な死を強制された、被害者」
として語ると、
「何ィ!?
あんた、ウチの息子は犬死にだったっちゅうんかー!
息子はな、日本の礎となるために立派に戦死を遂げたんじゃー!」
などと激昂する人なんて、一昔前はそこら中にいたものです。
家族の死が無意味なものだったとは認めにくい、その気持ちは分からなくはありません。
しかし「有意義なものであってほしい」という願望を優先させ、現実から目を背けるのはいかがなものかと。
そしてこういう戦没者遺族が『日本遺族会』に集い、自民党の票田になっているのですね。
もちろんその人数は減る一方なので近年は退潮傾向ですが、傘下には政治団体『日本遺族政治連盟』もあり、「首相は靖国参拝を」などのウヨい主張を続けています。
経済学では、
「すでに投資してしまったけど改修不能なリソース」
を『サンクコスト』(埋没費用)と呼びます。
コレは嘆いたところでもうどうしようもないので、スパっと損切りするしかありません。
しかし何となく「これまでの投資が無駄になるのは勿体ない」と考えてしまい、ズルズルとさらなる投書を続けてしまいがち。
超音速旅客機コンコルドは開発に莫大な資金がかかり、予算を大幅に超過。
このまま開発を続けたところで大赤字は避けられず、ダメージを最小限にするには
「今すぐ開発中止するしかない」
と判っていました。
にも関わらず、
「ここでやめたら、今までつぎ込んできた資金が無駄になるから」
ともはや引き返せなくなってしまい、計画続行。
インパール作戦か?
この事例から、それまでの投資が水の泡になるのを惜しんでズルズルとさらなる投資を続けちゃう、という悪手にはしるコトを『コンコルド誤謬』と呼ぶ様になりました。
戦没者遺族の「犬死にではない」もコレに近いものがあります。
その死が無意味であることを受け入れられず、必死に
「祖国の礎となったのだ」
「英霊がいたからこそ今日があるのだ」
という考え方にかじりつく。
そして戦没者を無意味な死に追いやった国や軍部の責任を追求せず、それどころか賛美してしまう。
UFOが到来しなかったことを認められず、
「心の中に来たからセーフ♡」
としちゃった人々が、予言のインチキを責めるどころか、ますます熱心に信じた様に。
「自分を守るために、無理くり何かを信じこもうとする」という行為はさらに卑近なトコにも転がってます。
女性はあまりよろしくないお相手と、酒のせいなどでうっかり寝ちゃった時、「ろくでもない男としちゃった」と考えると傷つくため、「この人はステキな人なんだ、だからセックスして良かったんだ」という形で無意識に合理化を図ることが知られてますね。
つまり「好きだからセックスした」のではなく、「セックスしたから好きになる」という倒立がある訳です。
コレを悪用して「好きにさせるにはとにかくセックスに持ち込め」とする恋愛指南書まである始末。
私の様な弱男からすれば、まずセックスする方が遥かに大変なんですけど。
コレは
「富裕層は周囲から儲け話が勝手に回ってくるから、一度なってしまえば楽勝」
というのは判っちゃいるけど、まず富裕層になるのが大変、みたいなコトですね。
先ほども登場した大槻ケンヂの歌には、この世界の仕組みを自分なりに解き明かそうとするものがあります。
「この世は『誰かの幸せは、誰かが不幸になる』という『身代わりシステム』で出来ている」
というテーマの歌が何曲もあったり。
「この世界のクオークの総数は一定で、増えも減りもしない。死んだ恋人の体を構成していたクオークのひとつが自分の体にあってもおかしくない。だから大丈夫」
みたいな歌もあります。
コレは物理学の中に、般若心経にも出てくる仏教用語「不増不減」を見出してるんやろなぁ…

そして死んだ恋人との一体感みたいなものを感じて慰めにしてるんやろなぁ…
とは思うのですが、よく考えるとクオークの数が一定だろうが、自分を構成するクオークが恋人由来だろうが、別にそれで私は救われないし、「だから何?」って話。
それでも、そうやって心の慰めを見つけようと頑張っちゃうヒトの努力は…
愚かしくも切なく、いじらしく、愛しい。
なので、間違ってはいても、馬鹿にする気にはなれないのです。
永井隆も、木村久夫も、戦没者遺族も。
それにこの手の思考は誰の中にも潜んでいるものです。
例えば「生命は有限だからこそ素晴らしい」みたいな主張ってよくあるじゃないですか。
それこそ生命賛歌の最高峰、手塚治虫の『火の鳥』にもあるし。
しかし現代SFの旗手・グレッグイーガンによれば、ソレは自然主義的誤謬に過ぎない模様。
…という話は施川ユウキの漫画『バーナード嬢曰く。』で知っただけですが。
確かに、もし生命が無限だったらソレはソレで生命の無限っぷりを賞賛してそう。
生命が有限であるというたまたまの事実から「有限だからこそ素晴らしいのだ」という価値観を引き出しちゃうのは、自然主義的誤謬ですね。
いろいろ書いたけど、私自身も勿論やらかしてます。
前回の「延長された表現型」についてのエントリ…
アレ今回さんざん批判した「自分の都合に合わせた解釈」丸出しで恥ずかティー!
しかし「恥ずかティー」とか30年以上も前にながいけん閣下が使ってた小ギャグを今さら引用してみせるコトの方が恥ずかしい。
コレはアレじゃよ〜!
あまりにも恥ずかしすぎて、敢えて恥ずかしい小ギャグを入れることで読者の注意をそちらに引きつけるという高度な戦略。
そんな策を弄するほどに恥ずかしい。身悶えするほどに〜。
恥ずかしくて恥ずかしくて穴があったら埋めたいです。ちにゃ〜(全体にながいけん)。
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