ネトウヨさんサイト『Share News Japan』に↓こんなのが。
【Share News Japan】
『中国政府、自国民の塩買い占めに「韓国人のマネをするな」「我々は韓国人よりも理性的だ」』
https://sn-jp.com/archives/136206
内容は『朝鮮日報』の記事を紹介したもの。
◉『人型汚物同士で潰しあってくれ』
◉『笑わせてくれる
特亜は皆一緒』
◉『朝鮮人より上でも全然意味ないぞ。
あいつらの下はGぐらいだし。』
◉『もはや大して変わらんわw
中国人、韓国人も地球上に必要のない人型というだけの下等生物の代名詞ですからw
ついでに朝鮮人もなw』
◉『支那畜が理性とか笑わせんなw』
といったあられもないヘイトスピーチの洪水。
現時点で100件近くのコメントのうち、中国の発言を咎めたものはわずか1件、それも「パヨクはそれを批判しないのか」という文脈。
あとはおおむね、中国人に理性を認めないもの。
しかしこの買い占め・買いだめという問題、理性があったところで解決しない…というか、理性があるからこそ解決しないんだよなぁ…
そういう意味では中国の発言は間違っているのですが、ネトウヨさんたちのご意見にソレを指摘するものは見当たりません。
それにどこの国であれ、政府が「買い占めは止められません、理性は役に立ちません」とも言えないでしょ。
ではなぜこの問題で理性が役に立たないかを解説していきましょう。
例えば、100軒の酪農家から成る村に共有の牧草地があったとします。
村人は誰でも自由に自分の牛を放牧することが出来るとしましょう。
しかしあまりにも多くの牛が放たれると牧草は新芽にいたるまで食べ尽くされ、回復不能になってしまいます。
したがって牛の数は限界まで増やすべきではありません。
そのことは全ての村人が理解できます。
でももしあと一頭自分の牛を増やし、それによって共有地全体の価値が低下しても、100軒の共有地なので自分に跳ね返ってくるダメージは全体の1/100に過ぎないですよね。
一方で、牛を増やしたことによる増収は全て自分のものとなるでしょう。
であれば、牛をあと1頭増やすのが得策です。
しかし全員が牛を増やすと共有地には100頭の牛が増えることになり、破壊的なダメージがもたらされます。
そのことは誰もが認識しているのですが、自分だけが牛を増やすことを控えたところで事態は解決しません。
それは牛を増やすエゴイストを得させるだけです。
もしあなたが村全体のために牛を増やさなかったら、その隙に隣人がさらに一頭を追加するでしょう。
こうして村人全員が事態の悪化を理性的に認識し、牛の数を抑制する必要を感じていながら、誰もが牛を増やすことをやめられません。
この様に、自由にアクセスできる共有資源は枯渇を招くのです。
これを「コモンズ(共有地)の悲劇」と呼びます。
この悲劇を回避する方法は2つしかありません。
アクセス制限か私有化です。
前者は「牛は一軒に10頭まで」といったルールを作ったり、放牧できる時刻や期間を限定する、といった形で過剰な利用を抑制する方法です。【註1】
後者は例えば「共有地を100等分して私有地制にする」といったやり方。
私有化してしまえば、牧草地の過剰利用によるデメリットも全て自分が引き受けることになるため、村人は牛の数と牧草地のコンディションが最良のバランスとなる様に、利用を抑制するはずです。
それはつまり、誰もが「自由に」利用できる「共有資源」である限り、この悲劇は不可避のものだということ。
オープンアクセスの資源を管理する際には常にこの問題がつきまといます。
トイレットペーパーやマスクなど、物資が品薄になるたびに問題化する「買いだめ」もそのひとつに思えます。
無料ではないとはいえ、誰でも買える価格の商品はオープンアクセスと見なして良いでしょう。
目の前の商品を購入すれば、自分は安心を手に入れられます。
自分だけが購入を抑制しても、どうせ他の誰かに買われるんだし。【註2】
この場合、解決策としての「私有化」は無理(そもそも商品を私有化するための手段が「共有地の悲劇」と化しているので)。
「お一人様2個まで」といった形での軽いアクセス制限はできますが、抜け穴が多く、根本的な解決ではありません。
誰もがよくないことと知りつつも、買い控えできない…。
「私はそんなことしない」と思う人もいるでしょう。
でも本当にそうでしょうか?
「誰よ買いだめしてるバカは」と思いつつ、いざ入荷してたら買ってしまわないですか?
知人に品薄の商品を分けてあげたこと、あるいは知人から分けてもらったことはないでしょうか?
それは一見、善意に満ちた行為に見えますが、結局のところ特定の人々の間での占有であり、間接的に買いだめに加担してしまっているのではないでしょうか?
もし仮にそうだとしても私はあなたを責めたりしません。
いずれにせよ、「共有地の悲劇」から逃げる方法はないのですから。
渋滞に引っ掛かってイライラしている時、人は「渋滞を起こしてる誰か」に毒づくもの。
しかし自然渋滞の場合、渋滞に明確な先頭といったものはなく、責められるべき個人も存在しないものです。
むしろ巻き込まれている人自身も渋滞の一部であり、さらなる渋滞の原因となっていたり。
誰もが被害者であり、同時に少しずつ加害者なのです。
でも本人はそれに気付かない…
買いだめ問題もこれに似てます。
理性の力でなんとかできないのでしょうか?
残念ながら「共有地の悲劇」の悲劇性は、全員が理性的であっても回避できないところにあります。
おまけに現実は万人が理性的という訳ではありません。
こんなゲームを考えてみましょう。
100人の人間が無作為に実験室に集められます。
実験室には100の小部屋があり、被験者はそれぞれの個室に入ります。
部屋にはボタンがひとつあり、実験開始から10分間、誰もこのボタンを押さなければ全員が10万円もらえます。
しかしもし誰かがボタンを押した場合、最初に押した人にだけ1万円が与えられ、他の人は何ももらえません。
事前に、あるいは実験中に他の被験者と話をすることはできません。
もしあなたがこのゲームに参加するなら、どう行動すべきでしょうか?
「最初に押した人にだけ100万円」とかなら、裏切りの誘惑が発生しますよね。
しかしこの場合、裏切っても手に入るのはたったの1万円。
だったら全員が言外のうちにしめし合わせ、全員が10万円ずつ貰った方がどう考えてもお得。
…理性的な人なら誰もがそう考えるはずです。
しかし問題は「無作為に集められた100人」というところにあります。
100人もいれば、何人かは理性的でない人が混じってるものです。
彼らは深く考えてみることもせず、「とりあえずなんとなく」でボタンを押すでしょう。
誰も得しないのに。
そして理性的な人はそれを予想し、だし抜かれる前にだし抜くしかなくなります。
つまり、ゲームが始まった瞬間にボタンを押すしかないのです。
買いだめも同じ。
例え物資の不足がデマで、全員に必要分の供給があったとしても、デマを信じた人が買いだめにはしれば、結局のところ実際に品薄になります。
デマがそれを信じた人々によって現実化することは、有名な豊川信用金庫事件を見ても明らかですよね。
断っておきますが、私は「だから率先して買いだめをするべきだ」などと言うつもりはありません。
私は現実が「どうであるか」について語っているのであって、我々が「どうであるべきか」について語っているのではないのです。
もし人々の善意と倫理によって事態が打開されることになれば、その時こそ我々は理論の修正を迫られ、ヒトについての見方を改めなければならないでしょう。
是非ともそうあってほしいものです。
もしあなたがこのエントリに不快感を抱いたなら、人々には買いだめを抑制する力があるというのなら、事実を以ってそれを反証してほしい。
私は心の底からそれを願っています。
実は希望はあるのかもしれません。
東日本大震災の直後、職場で同僚のおばちゃんが
「なんで買いだめなんかするんやろなー」
とぼやいていたので、共有地の悲劇云々について説明し、買いだめは不可避であることを説明しようとしたのですが…
「議論はせぇへんで?
どうせ私の結論は変わらへんし」
と機先を制されてしまいました。
とりあえずその場は
「あなたの価値観に反対している訳でも議論がしたい訳でもない」
ことを説明しておきましたが…
なんちゅう愚直さ、頑迷さやねん。
事実に基づいた知識なしに、一体どうやって価値判断できるというのか…
と、驚かされました。
…しかし、もし全員が彼女の様であれば、問題は解決するのかもしれません。
かねてから倫理哲学者は、倫理哲学について考えたことのない市井の人々がしばしば非常に倫理的であることを指摘してきました。【註3】
道徳の起源に取り組めば取り組むほどに、そこには磐石の基盤などどこにもないことに気付かされます。
道徳の起源を探る行為それ自体が、道徳の足元を崩すものなのかもしれません。
真理に近づいていくと、その中心は空っぽなのかも…。
でも道徳をただ「それが道徳的であるから」という理由で受け入れる、シンプルでナイーヴな人にはそんな悩みは無縁です。【註4】
彼らはそれ故に強い。
ヒトの持つ愚直さこそが我々を救うのかもしれません。
とりわけシンプルマインドのネトウヨさんたちには、普通の日本人が民度の高さを発揮してこの問題を見事に解決する姿を、思う存分見せつけていただきたいものです。
【註1:アクセス制限】
これまでの漁業は「獲れるだけ獲る」といういささか乱暴なもので、多くの水産資源が底を尽くまで利用し尽されてきました。【註5】
休漁によって資源を回復させる必要があっても、「コモンズの悲劇」がそれを許さなかったからです。
近年になってようやく「獲る漁業」から「育てる漁業へ」の転換が叫ばれる様になり、様々な取り組みが行われる様になってきました。
貝などの移動力の低い水産資源は漁協などによる禁漁の申し合わせによってアクセス制限をかけやすい…
しかし回遊魚はある港が休漁しても他の港が出漁してしまえば、港間での「共有地の悲劇」を生むことになります。
しかし複数の港が共同で数年単位の禁漁に踏み切り、資源回復を成功させた例もいくつかあったり。
関係者間の調整は困難を極めたことが容易に想像できます。
にも関わらず、それをきちんと解決した人々がいる…
そういったプロジェクトが成功した、というニュースには思わず目頭が熱くなりますね。
【註2:買い置きの問題化】
買いだめの問題に比べれば、東日本大震災の時の様な節電の方はもう少しうまくいくでしょう。
節電中でも「必要があればいつでも使える」という安心感があるからです。
少なくとも人々の気が緩みだし、節電生活に嫌気がさすまでの間は。
【註3:人は意外に倫理的】
今回紹介した様な、ゲーム理論的な話は、「人々は自らの利得を最大化しようとする」ということが前提になっています。
倫理の力はそれを上回らないことが、暗黙のうちに仮定されてしまっている訳です。
これらの理論が発達してきた経済の世界では、「顧客へのサービスや社員の待遇を良くしたい」という経営者の倫理観が、利潤追求と自己の栄達への欲望を上回ることはほとんどなかったため、そういった仮定も有効だったのでしょう。
しかし最近では人々はそれほど理論通りには振舞わないことが注目され、利得ではなく感情によって動いてるのではないかという点に注目が集まっています。
【註4:道徳は道徳的だから受け入れるというナイーヴな人】
もちろん、「道徳は道徳的」というのは同義反復で何の説明にもなっていません。
「美味しいものは美味しい」というのと同じで、意味を成さないのです。
ちなみに「ナイーヴ」とは本来「素朴」という意味で、あまり誉めた表現ではありません。
「繊細」というニュアンスではないので注意。
【註5:水産資源の過剰利用】
過剰利用によって食用魚の多くは大型個体が減り、小型個体が繁殖する割合が増えるため、その遺伝子が受け継がれて全般的に小型化しつつある模様。
注釈に注釈を入れるのはアホっぽいので出来るだけ避けてきましたが、構成上こうなってしもたー。
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