さて当ブログでは管理人の趣味により、時どき進化論について説明してきた。

これまでの主だったものを並べると…


『政治を語る上でも知っておきたい、「利己的な遺伝子」とは何か?』


『性差の起源』


『アナロジーでよく分からないセックス』


今回は「利己的な遺伝子」の先にある、「延長された表現型」について。

最初に言っておくと、これは15年以上も前に、失恋で傷付いていた友人を慰めるために書いたものだ。
今さら取り上げるのも気恥ずかしいのだが、「延長された表現型」の要約・説明としては価値があると考え、最小限の手だけ加えて当ブログに収めておく。




「私とひとつになりたい? 心も体もひとつになりたい? 
 それは、とてもとても気持ちいいことなのよ…」 


…という台詞で当時の青少年の心を鷲掴みにした作品が30年ほど前にあった気がする。 

確かに他者と肉体も精神も融合し、一体化するというイメージは究極の関係性として強い憧れと衝動を喚起するし、同様の表現は枚挙にいとまが無い【※註1】。 

が、私は「身も心もひとつになる」といった類の言葉には懐疑的であった。 


文字通り「身も心もひとつになる」には少なくとも免疫系と神経系を共有する必要があるだろう。 

しかしそれは明らかに無理がある。 
実際にはこの手の表現は単に「相互に恋愛感情を持って性交渉を行った」ことの婉曲表現に過ぎない。 

もちろん愛に満ちたセックスも素敵だとは思うが、「ひとつになる」と言う表現はさらに深くロマンチックな関係性をイメージさせる(そうであるからこそ婉曲表現に使われるのであろう)。 

しかしどんなに愛に溢れていたとしても、自己と他者を隔てる壁は厚い。 
両者が別のものである以上、利害の対立は避けがたいことなのだ。 

表面的に問題がなくても、本当に相手に愛情があるのかどうかなんて確かめようがない。 
仮に性交渉中に一体感を感じたとしても、パートナーもそれを感じているかどうかは判らない。 

一部の人間にとっては性交渉はそれ自体が快楽なのではなく、パートナーがもたらす別の形のメリットに対する交換取引に過ぎないのかもしれない【※註2】。 
人は―その動機が好意からであれ、悪意からであれ―嘘もつくし演技もする。 
相手の本当の心の内なんて永遠にわかりっこないのだ。 
そう、それこそ神経系を共有でもしない限り。 

仮に強烈な一体感を感じる瞬間があっても、同時にそれが錯覚に過ぎないこともまた強烈に認識してしまうのだ、私という人間は。 

だから、「ひとつになる」のなんて無理だと思っていた。 


リチャード・ドーキンスが提唱した「延長された表現型」という概念がある【※註3】。 

思いっきり簡単に説明すると「ある遺伝子が影響を及ぼすのは、その遺伝子を持つ当の生物の体の中だけとは限らない」ということである。 


例えば、ある動物の皮膚の厚みや色が特定の遺伝子の影響下にある場合、皮膚は遺伝子の産物(表現型)と言えるだろう。 

もし動物の巣の形や色も何らかの遺伝子の影響を受けていたとすれば、巣もまた遺伝子の表現型と呼んで差し支えないのではないか? 

「いや、体は遺伝子によって直接作られるけど、巣は間接的なものに過ぎないじゃないか」と思われるかもしれないが、実際には体だっておそろしく曲がりくねったルートを使って間接的に作られている。 

巣も体の延長だと考えると、遺伝子の腕はとてつもなく長いことになる。
例えばビーバーのダムは数平方kmにわたって地形を変えてしまう。 
遺伝子の影響力は生物の体を飛び出し、はるか彼方まで届くのだ。 

遺伝子が影響を与えるのは巣だけではない。
その対象が別の生物であることもある。 
ある寄生虫はヨコエビに取り付き、その行動を操る。 
ヨコエビは普段は水底にいるのに、寄生されると水面近くに移動するのだ。 
こうすることでヨコエビはマガモに食べられやすくなり、寄生虫はまんまと最終寄主であるマガモの腹に移動する。 

この寄生虫の遺伝子は結果的にヨコエビを殺してしまうことでより多くの自分自身のコピーを残すのだ。 

常識的に考えればある遺伝子は自身が宿る体にのみ影響を与える。 
だが実際には、遺伝子は当の生物自身の中にあろうが外にあろうが、自分自身を最大化させる傾向を持つ― 
これがドーキンスの主張である。 
遺伝子の利己性はより拡張され、徹底しているというわけだ。 

こういった話は最近まであまり知られていなかった。
だがいまや児童書にすら寄生虫オンリー本があり、その内容はと言えば、この手の「寄生者による寄主操作」の実例でいっぱいだ。

これら何とも不気味な寄生者の話には慄然とさせられる。
この世界が徹底的に無慈悲で、崇高な愛とは無縁の場所であることを思い知らされる。 


だが、ドーキンスの透徹ぶりは我々をさらに遠い場所まで連れて行く。 

個体が自分以外の個体の遺伝子に影響されるなら、そもそも「個体」というユニット(単位)に意味があるのか? 

ドーキンスは「私の体が私のものである」という考えは偏見に基づいた仮定だ、という。 
生物の世界は様々な遺伝子が相互に影響を及ぼしあう「延長された表現型」のネットワークなのだ、と。 
そして個体はそのウェブの糸が集中する焦点として理解される。 


『利己的な遺伝子』で「大事なのは個体ではなく、遺伝子なのだ」と主張し、個体という概念の重要性を解体してみせたドーキンスが、「延長された表現型」──つまりは遺伝子の影響の焦点として、個体を取り上げる…

これを別の科学者が「どうやらドーキンスは組織体(オーガニズム)を再発見したらしい」と揶揄した。
ドーキンスの言ってることは、
「個体なんて意味ない、大事なのは遺伝子なんや! そして遺伝子の影響力の結節点を見てみると…うわなんやこれ、個体やんけ! すごいモン発見してしもたわ!」
…という空騒ぎに過ぎないやんけ、と。

しかしドーキンスは平然とその言葉を利用し、『延長された表現型』の章のひとつを「組織体(オーガニズム)を再発見する」と名付けた。

ちなみに本来は批判のためだったネーミングが肯定的に普及することはよくある。
『ビッグバン』はもともと天文学者のフレッド・ホイルが
「宇宙がデッカい『バン!』で誕生した、だって!?
んなアホな」
という意味で使い出したのが起源。
有名な『シュレーディンガーの猫』も、エルヴィン・シュレーディンガーが
「じゃあこういう状況では猫は半分死んでて半分生きてるっちゅーんかい!?」
と批判するのに言い出した思考実験だ。


話を戻すと…
もしあなたがパートナーから何らかの影響を受けているなら(それが遺伝子によるものであれ、ミーム【※註4】によるものであれ)、その感情や気持ちはすでにパートナーの「延長された表現型」なのかもしれない【※註5】。 

そう考えれば、あなたはすでにパートナーの一部であり、一体のものなのだ。 
別の言い方をすれば、パートナーはあなたの中に物理的に構造化している。 

例え別離があったとしても、あなたがパートナーのことを覚えている限り、ある意味で二人は一体のものなのだ。 


勿論、そう考えたからといって幸せが保証されるわけではない。 
現実は何も変わらない。 
また自分が誰かの延長された表現型になるということは多くの場合、相手から徹底的な搾取を受けることである(寄生虫とヨコエビの例を想起してみれば判る)。 
これを悦びと感じるには自分が相手の所有物であることを悦ぶのと同質の精神的マゾヒズムが必要であろう。 

もともとの話の出発点であった「身も心もひとつになる」という表現のロマンティシズムとはあまりにかけ離れていることは重々承知している。 
だが無根拠なポジティブシンキングが苦手な私はこういう「限定された愛」や「絶望の果ての一縷の望み」みたいな話に滅法弱い。 


自身が誰かの延長された表現型であることを認識する時、私はうっすらとした一体感と安堵に身を任せることができるのだ。 





【※註1:肉体も精神も融合】 

例えば 


【註2】 

特に女性には性交渉それ自体にはメリットを感じない人も多いと思われる。 
そういう女性であっても多くの場合、結局はパートナーとの性交渉に同意するという事実には正直なところ驚きを禁じえない。 
その動機は、愛情や感謝の気持ちの表現、相手との権力関係、別離への恐怖、「それが普通だから」という社会通念への義務感、などいろいろあるだろう。 
しかし最も強い動機はおそらく返報性や交換取引であろう。 

ここで言う交換取引(トレード・オフ)とは財産や扶養などの計算づくの経済観念のことだけではなく、恋愛感情による多幸感や安心感といった心理的メリットまで含んでいることに注意。 


【※註3:延長された表現型】 

実は有名な「利己的な遺伝子」説はドーキンスが考えたものではない。 
G.C.ウィリアムズが唱えた「遺伝子淘汰」を巧みな比喩によって説明し普及させたのがドーキンスであり、そこで使われたのが「利己的な遺伝子」というキャッチフレーズなのだ。 
このことはドーキンス自身が認めており、「延長された表現型」こそが自分の真にオリジナルな説であるとしている。 


【註4:ミーム】 

模倣子。
遺伝子が親から子へと伝わる様に、脳から脳へと伝わる文化の単位。 
遺伝子の文化版だと思うと分かりやすい。


【註5:パートナーから何らかの影響を受けている】 

ドーキンスはコミュニケーションの本質を「情報伝達」ではなく、相手を自分に都合よく「操作」することだと看破した。 
彼は雌を誘惑する雄をこう表現している。 


ナイチンゲールの歌は情報ではないし、他を欺く情報ですらない。それは誘因的で、催眠的で、呪縛的な雄弁である


彼が発する特定の音声パターンは、耳を通じて雌の頭の中に入り、神経インパルスに変換されて彼女の脳下垂体へと狡猾にもぐり込んでいく。雄は生殖腺刺激ホルモンを合成したり、注射したりしなくともよい。自分のためにそれを合成するよう、雌の脳下垂体をはたらかせればよいのだ。彼は神経インパルスによって彼女の脳下垂体を刺激する。それらのインパルスは、すべて雌自身の神経細胞で生じるという意味では、『彼の』神経インパルスではない。 
しかし、それらは別の意味では彼のものである。雌の神経をして彼女の脳下垂体に作用せしめるべく巧妙にかたちづくられているのは、彼の特定の音声である。生理学者が雌の胸筋に生殖腺刺激ホルモンを注入したり、脳に電流を通したりするかわりに、雄のカナリアは彼女の耳に歌を注ぎ込むのだ。そして、その効果はといえば同じなのである


これらは人間の求愛行動にも当てはまるであろう。 
恋愛に関してこれ以上蠱惑的な表現を私は知らない。