2022年06月12日
カーゴ・カルトという信仰がある。
18世紀以降メラネシアに西洋人が踏み込んだ時、現地の人々は西洋から持ち込まれた文明の利器の数々に驚嘆した。
とりわけ太平洋戦争時にはアメリカ軍が物資を空輸し、投下しまくったため「空からドカドカ財産が降ってくる」という神話や説話でしかありえない様な状況が実際に起きてしまい、それを経験した人々がそれを信仰と結びつけたのも無理はない。
だがその信仰はストレートな「神への感謝」といったものではなく、やや込み入ったものだった。
現地人たちは気付いたのだ。
富をもたらす西洋人が決して自分たちではそれらの工業製品を作り出さないことを。
「あの便利グッズってどこから来るんだろ?」
「あんな凄いの、神か先祖の霊が作ったに違いねえ」
「西洋人、なんでそれを独占してるんだろ?」
「あいつら、神の使いじゃね?」
「いや、あいつらが祖先からの贈り物をピンハネしてんじゃね?」
「どっちにしても、奴らの真似すれば神様からいろいろ届くんじゃね?」
そんな訳で現地人たちは見よう見まねで「神と交信する技術」を模倣する。
つまり村の広場に空港もどきを作り、積荷を満載した飛行機が来てくれる様に祈ったのだ。
管制塔もどきも作り、西洋人のコスプレもしてみた。

飛行機は多分オスなので、藁でメスの飛行機もどきを作っておびきよせてみたりもした。

もちろん、飛行機は来なかった。
だが人々は積荷の到来を待ち続け、「もうこれで働かなくてもすむもんね」とばかりにニート化したり、「もうすぐ祖先が山ほどの富を抱えて帰ってくるんだし」と財産をポイする者もいたという。
これは飛行機もどきというシンボルを操作することで富が手に入ると期待する呪術であり、呪物崇拝(フェティシズム)である。
カーゴ・カルトは一見、「舶来物はスゲェな」という拝外主義・舶来信仰にも見える。
だがそれは逆に「白人がズルしてる」「あれは本来、俺たちのもの」という排斥なのだ。
カーゴ・カルトは復古主義運動・土着主義運動・反文化変容運動であり、素朴な形での信仰はほぼなくなったが、政治的運動に取り込まれ、今も根付いている。
面白要素満載のカーゴ・カルトだが、その資料はおそろしく少ない。
「アモク」の時もそうだったが、ネット上にWikipediaをはじめとする概説が出回りだしたのはここ数年のことで、それ以前は断片的な記述しかなかったものだ。【註1】
書籍の類を見ても、ほとんど見あたらない。
有名なのはノーベル賞を受けた物理学者・リチャード・ファインマンの自伝「ご冗談でしょう、ファインマンさん」の最終章「カーゴ・カルト・サイエンス」だろう。
ファインマンさんは「スタイルだけは科学的だが本質を見失っている疑似科学」を批判し、それを形だけ真似たカーゴ・カルトの飛行機もどきが決して飛ばないことに例えた。【註2】
岡田斗司夫やドーキンスの著作にも少し触れられていた様に思う。
諸星大二郎の漫画「マッドメン」はパプアニューギニアを舞台にしており、「アモク」と「カーゴ・カルト」がちらりとではあるが描写されていて驚愕。【註3】
そういえば両方あるんだねパプアニューギニア…。
どんなトコだよ!
だがアモクもカーゴ・カルトも「蛮族の奇妙な風習」などではない。
それらは我々の中にもあるのだ。
実はカーゴ・カルトはマイナーな概念でありながら、あちこちで使われてもいる。
意味も解らずに成功者を模倣することを指して使われ、例えばコンピュータ・プログラムの世界でそれを行うことを「カーゴ・カルト・プログラミング」という。
2ちゃんねるのどこかの板では、「ネ申が現れてレアな画像などを落としてくれるのを待っているだけで何もしない人たち」のことをカーゴ・カルトと呼んでいた。 <ウマいな
ファインマンさんがカーゴ・カルト的だと批判した擬似科学にいまだに体もなく騙される人のなんと多いことか。
この様に、カーゴ・カルト的なものは我々の中にもいつもある。
そもそも「自分の知らないどこかから大量の物資が届く」という我々の生活、「物質的豊かさが幸せを生む」という我々の『信仰』こそがすでにカーゴ・カルトなのだ。【註4】
我々の生活へのカーゴ・カルトの浸透を示す看板を発見した。

ゲーム用のカード専門店らしいが、明らかに「カーゴカルト」を意識したネーミング。
【註1:Wikipedia】
ちょっと前までWikipediaに「アモック」のページがあったのだが、現在は消されている。
アモクについて解説したサイトを要約しただけの内容だったせいだろうか。
ちなみに検索していたところ、「アモクシステム」なる会社があるのを発見。
嫌な名前だな…。
【註2:ファインマンさん】
ファインマンはやはり「さん」付けで呼ばねばなるまい。
彼をめぐる逸話はいろいろあり、Wikipediaの「リチャード・P・ファインマン」の項には「逸話」という章もあるので参照されたい。
【註3:諸星大二郎】
私が諸星大二郎作品に触れたのは随分と遅かった。
もともと妙に気になっていたもの(うつろ舟・えびす等)が続出して驚愕したが、ストーリーはおそろしく淡々としていて特にオチらしきものはないことが多い。
「オチのない怪異漫画」という系譜は伊藤潤二あたりにつながっていくのかもしれない。
というか、怪談の類にひねりの効いたオチが標準装備されるのはかなり最近になってからで、昔の怪談はただ奇妙な怪異が語られるだけなのが普通だった様だ。
『日本霊異記』とか『本所七不思議』とか割とそう。
【註4:カーゴ・カルト】
あるいはこういう物言いを批判する人もいるかもしれない。
これらの言説はいずれもカーゴカルトを「実用性のない盲信」として扱っている。
だがこういった解釈は「西洋=正しい」「東洋=野蛮で遅れている」というオリエンタリズムとして批判されることがある。
カーゴカルトをめぐる解釈は時代ごとに変更を迫られ、「土人が狂気に陥ってる」というものから「見た事のないものに対する彼らなりの合理的解釈なんでしょ」、という見方へと変わり、さらに歩を進めて「あれが彼らの正常な思考様式なのだ」とか、「カーゴカルトなんてなかった。それは西洋人が彼らの文化の一部を勝手に切り出して誇張したり捏造したものに過ぎない」という意見も出ている。
文化相対主義というやつなのだろうが、このへん、個人的には「いや、そういう信仰が実在したことは疑いないんでしょ? じゃあ、あったんじゃん」と思えるが。
西洋中心主義への反省から文化相対主義が生まれたことは評価するのだが、時に行き過ぎてはいないだろうか。
メラネシアの文化は尊重するが、それでもカーゴカルトの飛行機もどきは決して空を飛ぶことはないのだ。
そのことに変わりはない。
【付記】
最近、ヤコペッティのモンド映画『世界残酷物語』を観てみたら、カーゴカルトが登場。
「文明人から見た未開人の生活」という覗き見趣味丸出しの西洋中心主義的映画だが、そのあたりを自覚した上でサブカルチャーとしてのモンド映画を楽しむのはそれはそれでアリだと思う。
【後日付記】
Jアノンさんの「トランプさんが日本人全員に6億円ずつ配ってくれる」という主張ってカーゴ・カルトっぽいよね…。
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