2022年04月02日


最近、右翼系論客の本をいくつか読んだので紹介していくシリーズ。 
今回取り上げるのは有馬哲夫『こうして歴史問題は捏造される』。 

この人の特徴は反証主義です。 
そのあたりの説明を同書から引用してみましょう。 


P.19 
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歴史論争するとき、なぜそれはただの言い合いや水掛け論になってしまうのでしょうか。とくに日本と韓国や中国が歴史問題を議論するときは、互いに根拠を上げて議論するのに結論には一向にたどり着けません。どこまで行っても平行線です。歴史的事実は1つなのですから議論すればするほど、互いの認識は近くなるはずですが、そうはなりません。 
それは
歴史(および人文科学)の論議は、反証可能でなければならないという原則を中国と韓国が無視するからです。実は彼らは反証可能な根拠に基づいて歴史論議をしていないのです。また、あとで詳しく述べますが、歴史を反証可能な科学とは考えていないのです。 
反証可能とはオーストリア出身でイギリスの大学で教鞭をとったカール・ポパーが提唱した概念です。彼の説明を使うと「白鳥はみな白い」というためには「黒い白鳥はいない」ということを証明しなければなりません。しかし実際には黒い白鳥はいます。したがって「白鳥はみな白い」とはいえません。 
ところが黒い白鳥は数が少ないので、見たことがない人は自分の経験上「白鳥はみな白い」と思うでしょう。 
思う分には構わないのですが、その思い込みを他人に語って誤った知識を与えると問題です。そうならないよう、白鳥の色について自説を語りたい人は生息地を回って反証がないか確認する必要があります。この場合の反証とは「黒い白鳥がいる」ということです。 
このように
反証がないかどうかを検討することができることを、「反証可能性がある」といいます。そして言説や仮説には、反証可能性がなければならないというのが歴史やその他の学問においては大前提です。 
ここで混同されないように断っておくと、
「反証可能性がある」ということと「反証がある」というのは別のことです。反証可能性を検討したうえで「反証がない」または「反証がないと現時点では考えておいてよい」となればその学説や仮説はその時点では「正しい」と認められることになります。ただし、あとで反証があがってくれば「誤りだ」ということになります。 
また、
反証があるかどうか検討できないということは、正しいか間違っているか判断できないということです。学問では、正しいかどうか判断できないことは、正しいとはみなしません。何も証明できない、つまり証明能力がないということになります。 
では反証可能性のない言説とはどのようなものでしょうか。たとえば、
「〇〇氏は仏陀の生まれ変わりだ」「〇〇氏に首相の守護霊が降りてきて、メッセージを伝えた」という説を主張する人がいたとします。このような説に反証可能性はあるでしょうか。荒唐無稽な説ですが、我慢してよく考えてみて、反証を見つけるのは不可能だと言う結論が出ます。つまり「仏陀の生まれ変わりではない」「守護霊なんか降りてこない」という「証拠」はいかなるものか、と考えてみてもそのようなものは存在しないというしかありません。従ってこのような説は学問ではなく、信仰の部類に入るわけです。 
とくに人文学は、理科系の学問とちがって、明確な結果や数値はでません。勝手な理屈をこねて、反証無視していい張れば、なんでもいえるということになります。しかし、その主張は、現実とは無関係なので、現実と噛みあわず、認識を誤らせるだけの有害なものになります。ですから、そうならないよう、人文科学者は反証を無視せず、反証可能性を持った根拠に基づいて議論しなければなりません。 
反証可能な歴史の論議に必要なのは反証可能性を持った資料です。反証可能性を持たない資料に証明能力はありません。それらを検証し、その主張に対して裏付けとなっているとも反証になっているとも判断できないからです。もはや反証は上げられないと断定できないうちは、つまり「黒い白鳥はいる」ということをその時点で十分に否定できないうちは、すべての歴史論議は仮説に留まり、証明はされていないことになるのです。 
また、反証可能性は、その言説に具体的内容があるかどうかによっても異なってきます。たとえば、「日本人は戦争に負けて腰抜けになった」という言説は反証可能ではありません。そう思う人はいろいろな例を挙げて「その通りだ」というでしょう。またそう思わない人も様々な卑屈をこねて「いや違う」というでしょう。この二人が議論をしても、噛みあうことはなく、意味のある結論にたどり着くことができません。互いに自分が有利だと思う例をあげて、自分の方が正しいのだといいあうだけです。そして、結局は、「意見の相違だ」とか「しょせんあなたとは意見が合わない」といいあうことになります。 

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…まぁ細かいところではツッコみたくなるところがいくつかありますが、大筋では間違ってはいません。 
特に大事なのは「反証可能性がある」ということと「反証がある」ということをちゃんと区別してる点。 
ココは素晴らしい! 

では細かいところをツッコんでいきます。 

まず気になるのは「黒い白鳥」の話。 
白鳥の色について自説を語りたい人は生息地を回って反証がないか確認する必要があります。この場合の反証とは「黒い白鳥がいる」ということです』 
…コレ、『悪魔の証明』に陥らないためには、「黒い白鳥」がいることの挙証責任があるのは「黒い白鳥はいる」と主張する側なんじゃ… 
実際、『悪魔の証明』の説明でよく持ち出されるのは「白いカラス」というよく似た例だし。 
こういう他の概念と混ざったり対立しない様に、他のもっと適切な例を持ち出すことはできなかったんですかね… 

反証可能性を説明したいなら、私だったら例えば「世界の全ては5分前に出来た」とする『世界五分前仮説』あたりを持ち出すけど。 
コレは「去年の日記」とか「恐竜の化石」とか「過去が存在した証拠」をいくら持ち出しても「それらも含めて5分前に出来たのだ」と反論してくる無敵論法です。 
しかし無敵すぎて、「もしこういうものが見つかればこの説は崩壊するよね」という「反証する方法」自体が存在しません。 
反証可能性が無いので、この仮説は(もしかしたら正しいのかもしれませんが)科学的な議論の俎上には乗りません。 
子供の頃、ジャンケンで「あらゆる手に勝つオールマイティーな手」を勝手に編み出してくる奴っていたよね。 
そんなズルい手、認められなかったっしょ? 
そんなんアリなら全員使うし、そうなったら誰の勝ちかも分からない… 
何にでも勝てる手では何も決められません。 
同様に、何でも説明する論法は何も説明しないのです。 

さらに有馬哲夫は「反証可能性のない説明」の例として、
〇〇氏は仏陀の生まれ変わりだ
〇〇氏に首相の守護霊が降りてきて、メッセージを伝えた
という例を挙げてます。 
何故か大川隆法主宰先生(本名:中川隆)のご尊顔が浮かんできそうな例ですね。 
でも『仏陀の生まれ変わり』とかの主張は仏陀の教えや歴史的記録との矛盾があれば反証できるので、一応は反証可能では… 
まぁ反証されたらされたでこういう人は「記録の方が間違ってるのだ」とか「あの世で修業した結果、考えが変わったのだ」とか言い抜けがちですが、それは「補助仮説多すぎ」という別の問題でしょう。 

あと 
もはや反証は上げられないと断定できないうちは、つまり「黒い白鳥はいる」ということをその時点で十分に否定できないうちは、すべての歴史論議は仮説に留まり、証明はされていないことになるのです』 
という部分。 
まぁ別にこれが間違っているとは言いませんが(私もこの手の言い回しをすることはありますし)、科学は数学の様な「証明」はできず、科学理論の全ては「仮説」です。 
現在「証明済み」とされている科学理論も厳密には「今のところ反証に耐えている仮説」に過ぎません。 
そのせいで 

創造論者「進化論は所詮、仮説でしょ?」 
科学者「ええ、(他のあらゆる科学理論と同様に)仮説ですが?」 


…という噛み合わない話になったり。 

あと 
それは歴史(および人文科学)の論議は、反証可能でなければならないという原則を中国と韓国が無視するからです。実は彼らは反証可能な根拠に基づいて歴史論議をしていないのです。また、あとで詳しく述べますが、歴史を反証可能な科学とは考えていないのです』 
とくに人文学は、理科系の学問とちがって、明確な結果や数値はでません』 
人文科学者は反証を無視せず、反証可能性を持った根拠に基づいて議論しなければなりません』 

というあたり。 

カール・ポパーの反証主義は「これがないと科学とは呼べねぇぜ」と鳴り物入りで紹介され、広がったのですが… 
ポパーのイメージする「科学」はわりと物理寄りで、「再現性のある実験」とかだったのですね。 
ポパーのちょい前に世界を席巻した知的流行といえば「精神分析」「共産主義」「進化論」…彼はその全てに喧嘩を売ります。 
特にポパーは共産主義を嫌ってましたからね。 

精神分析は「君には〇〇という願望がある」と一度決めつけられてしまうと、それを認めると「ほら、やっぱり!」、否定しても「そうやってムキになるのが抑圧の証拠だ!」とされて、反証する方法がありません。 
一度疑われるとその時点で詰みの魔女狩りやんけ。 

共産主義は「矛盾あるやんけ!」となっても「それは一見矛盾に見えてもいずれは弁証法的に止揚(アウフヘーベン)されるからセーフ!」と、どうにでも言い抜けられるので反証不能。 

進化論も再現実験ができないので反証不能。 

…と、次々に「葬ったどー!」となったのですが… 
進化論はゾンビ返ります。 
再現実験できひんとか言い出したら、一度きりしか起きない歴史全般を扱うことができひんやんけ~。 

あとそもそも「進化論に対する反証」ってホントにありえないですか? 
集団遺伝学の祖J・B・S・ホールデンは「カンブリア紀のウサギの化石」を挙げてます。 
そらそんなモンが本当にあれば反証になりますわ。 
それに進化は実験も観察もされてます。実験進化学という学問まであるし。 
…どこが「原理的に反証不能」なん? 

という訳でポパー自身も「進化論は反証不能だから科学じゃない」という主張は取り下げています。 
そんなこんなで、反証主義と歴史はあまり相性がよろしくなかったのです。 

それでも歴史における反証可能性の重要さを説く有馬哲夫先生。 
カッコイイですね。 


P.26 
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歴史研究において、反証可能な資料とは、第一次資料のことをいいます。代表的なものは、日本の国立公文書館や国会図書館、外務省外交資料館、アメリカの国立第二公文書館や議会図書館や大統領図書館にある公文書や書簡や公人の日記などがあげられます。 
第二次資料とは、誰かが何かを主張するために書いた本とかパンフレットなどのことをいいます。第一次資料に基づいている場合もあり、基づいていない場合もあります。 
第二次資料は、基本的には反証可能性はありません
。たとえば、自民党を批判した本は、自民党を礼賛するためには使えません。逆も真なりです。原発反対の立場からの主張を書いた本をもとに原発推進の議論をすることはできません。逆もできません 
野党支持者を装って、わざとでたらめな自民党批判を書いて実質的に自民党礼賛することはできますが、これは資料ではなく、レトリックの問題です。原発反対派に見せかけて、わざと荒唐無稽な原発廃止を展開して、原発廃止が不可能であると思わせるのも同じです。 
しかし、こういった第二次資料が第一次資料に基づいている場合、本に使われたデータや資料などの第一次資料は、場合によっては、反対の主張の根拠として使うことができます。反証可能だからです。 

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第二次資料は、基本的には反証可能性はありません』 

…えっ、そうお? 
二次資料に明らかな論理矛盾が含まれてたら反証可能ですよね? 


ちなみにWikipedia『一次資料』の項の「概要」によればこうです。 

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学問分野としての歴史研究において一次資料(いちじしりょう、英: primary source, original source)とは、対象とする時代において制作された工芸品、文書、日記、写本、自伝、録音・録画、その他の情報源を指す。これはそのテーマに関する大元の情報として利用される。同様の定義は図書館学その他の学問分野でも用いられることがあるが、多少異なった定義を用いる分野もある。報道において、一次資料とはある状況に直接に接した人、あるいはそうした人が記した文書を指す[1]。 

一次資料は、それを引用、言及、補足した二次資料とは区別される
。一般に、事実に後知恵や歪曲を加えた記述は二次資料である[2]。二次資料はそれをいかに使うかによっては一次資料にもなり得る[3]。例えば回顧録は、そこに記された著者や友人に関する研究においては一次資料とみなされるだろうが、著者が生きた時代の文化を調査するにあたっては二次資料となるだろう。「一次」「二次」は相対的なものとして理解すべきで、それは特定の歴史的文脈と研究テーマに応じて情報源を区別するということである[4]:118–246[5]。 
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そしてWikipedia『二次資料』の項の「概要」はこう。 

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学術分野における二次資料(にじしりょう、英:secondary source)[1][2]とは、元はどこか他の所で示された情報について述べた、あるいは議論した、文書もしくは記録。二次資料は一次資料と対比され、一次資料は議論される情報の大元の情報源であり、それはある情報について直接的な知識を持っている人や、そうした人により書かれた文書であったりする。 

一方で二次資料は、一次資料に関する情報を提供する。そこにおいて、大元の情報は選択、修正され、しかるべき形式に整理される。二次資料には大元の情報の一般化、分析、解釈、評価が含まれる。 

何であれ手元にある情報源を最も正確に分類する方法などというものは、常に明確に分かっているとは限らない。「一次資料」と「二次資料」は相対関係にある用語で、ある情報源はそれがどう使われるかに応じて一次資料にも二次資料にも分類され得る[3][4][5][6]。百科事典や辞書といった三次資料は、分析を含む点で二次資料に似ているが、項目に関して広範な入門的概要を示そうとしている点が異なる[1][7]。 

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…有馬哲夫の「一次資料と二次資料の違い」についての認識が独特~! 
ざっくり言えば、当時モノは基本的に一次資料、ということですね。 
ところが有馬哲夫は当時モノでも個人的なメモや日記はこっそり「代表的な一次資料」から外してますね。 
なんで? 


それは読み進めていくと判ります。 
有馬哲夫は個人的記録は信頼性が低いとしてこう書いてます。 

P.48 
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また、何らかの動機や意図、つまり自分のしたことを偽ったり、正当化しようとしたり、他の人を貶めようという意図があってメモや日記を残す場合もあります。当然ながらそれらは、全く信用できないといえます。 
このようなケースにはある法則があります。つまり
5W(誰が、いつ、どこで、なにを、なぜ)と1H(どのように)に不自然なまでに触れないと言うことです。嘘なので、具体的にいえないということもありますが、いうと誰かに反証を挙げられるので、わざと反証可能性を消しているのです。 
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んん? 
メモや日記に5W1Hが抜けていても、それは「証明しづらい」だけで「原理的に反証不能」ではないですよね? 
例えばある事件に関わるメモに日付が抜けていたとしましょう。
しかしメモに「あの事件があった日は雨が降ってた」とあるのに、事件当日の天候記録等の資料に「晴れ」とあれば反証可能やん。 
そもそも歴史資料は他の資料との相補性が大事だと本書で有馬哲夫自身が強調しているのに…どうしてこうなっちゃうの? 

その後も有馬哲夫は慰安婦問題を取り上げ、やはりこう書いてます。 

P.56 
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とくに国連人権委員会のクマラスワミ報告書(正確にはその付属文書1)で朝鮮人「慰安婦」の方々がしている証言は、5W1Hに触れず反証可能性がないという法則に見事に一致します。 
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…やっぱこの人、自分で注意を喚起した筈の「原理的に反証可能か」と「実際に反証があるか」の区別が付いてないよ! 
まぁ説明に挙げる例からしておかしかったし。 
要するに反証可能なものを「反証不能だからアウト」と言い張る芸風。 

さらに、 

P.47 
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大統領や独裁者や政府高官ならば、残す動機は明らかです。自分がしたことを後世に伝えるためです。そして、公的な記録がありますし、多くの関係者が知っていますのでみだりに嘘はつけません。 
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…という形で、有馬哲夫言うところの「第一次資料」ならば独裁者による公的記録でも擁護してます。 
そんなんプロパガンダかもしれんのに。 

ところがそれだと、自分に都合の悪い一次資料まで認めざるを得ません。 
なので『共産主義国の第一次資料』という小見出しの下にある文章では 

P.45 
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しかし、このような「政治イデオロギー」や「建国イデオロギー」のために編集され、保存されている資料は、第一次資料でも歴史的事実を歪曲するだけだということは明らかです。このような社会、政治体制の国の第一次資料は、自由主義体制の国のそれと同等に扱ってはいけないということになります 
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え、科学界で「コレは共産主義国の論文やしナシな!」とかある? 
何のための反証主義だよ。 


ちなみに 
このような「政治イデオロギー」や「建国イデオロギー」のために編集され、保存されている資料』 
とは具体的には↓こういったもののことだそうです。 

P.45 
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たとえば中国各地にある档案館(アーカイブ公文書館)には日本軍関係者の坦白書(自白書)が大量に保存されています。これらは、日本軍関係者が終戦によって、あるいは終戦前に、おもに共産党に投降して捕虜となり収監された時に書いたものです。自発的に本当のことを告白したケースもあるでしょうが、早く帰国したいがために共産党軍の意向に沿った内容(中国人に対する残虐行為など)を話したものも多いのです。 
実はこれは
ハーグ陸戦法規定第二十三条に定めた「相手当事国の国民を強制して本国に対する作戦行動に加わらせることはできない」に違反する行為です。「作戦行動」をプロパガンダと読めば抵触することがわかります。 
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え、ここでハーグ陸戦協定を持ち出すのって強引じゃね? 
プロパガンダって「作戦行動」なんですかね…? 
わざわざそう読み替えないと抵触しないのかよ。 

ドラマ『ビッグバン☆セオリー ギークなボクらの恋愛法則』で、共同購入したガラクタの中からおたく的お宝を発見したシェルドンが「海難救助法によれば発見者のものだから僕のものだ」と主張し、「ここは海じゃない」と反論されて「水がない以外、状況は同じなのに!」と再反論するシーンを思い出しました。 

あとネトウヨさんはしばしばめっちゃショボいことでも「コレは国益を損ねる…外患誘致で死刑だー!」とかイキるじゃないですか。 
お前、外患誘致言いたいだけちゃうんかと。(なつい) 
それに似てますね。 

動物行動学的に言うと… 
クレブスとドーキンスによればコミュニケーションの本質は相手の「操作」です。 
つまりコミュニケーションには最初から「相手を自分の都合に合う様に操作したい」という欲望が含まれています(その欲望には勿論、「説得したい」「共感を得たい」「味方に引き入れたい」「愛されたい」といったものも含まれるでしょう)。 
あらゆるコミュニケーションは最初から洗脳やプロパガンダめいているものです。 
そのどこに「洗脳だ」「プロパガンダだ」という一線を引き、「これはハーグ陸戦協定違反だ!」と判断すれば良いんですかね…? 

あと有馬哲夫論法で言えば、その辺の主張を裏付ける5W1Hを備えた反証可能な第一次資料はどこにあんの? 




  ※字数の都合で2回分け。次回に続きます。






(23:57)

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