2022年03月28日


私は決定論者であり、自由意志というものを信じていません。 

したがって、人の行動には選択肢などないと思っています。 
ということは、ある人がものを盗むのも、殺人を犯すのも、厳密にはその人の責任とは言い難いということになりますよね。 
しかし「何の責任も取らなくても良い」のであれば、社会は成り立たないため、「疑制」として責任というものが仮定され、背負わされる…それもまた仕方のないことです。 
それは本当は不条理なことなのかもしれないけれど、「人々が責任の存在を信じ、社会が責任というものを前提にすること」自体が変えようがなく、決定論的に不可避なのかもしれません。 
犯罪者は本当は責任などないのに、社会維持のために犠牲にならざるを得ないのかもしれません。 


もっと言えば、大半の人は決定論を理解していません。 
自由意志は本当にあるとしか感じられないからです。 
しかし「感じる」から「存在する」ということにはなりません。 

神様はいませんが、宗教的法悦を感じる人はいます。 

幽霊はいませんが、「霊感が強い」と自称する人はクラスに一人はいましたよね。 

ちなみに私は霊は信じないけど心霊スポットにはビビりまくりですし、愛の永遠とか崇高さとかも信じてませんが、恋愛中は「この感覚…! こ、こらぁ人が崇高な愛とか信じるのも無理ないで…!」と思ってます。 

しかし一方で日常の、例えば政治レベルで発言をする際は、私はこのようなことはいちいち考えてはおらず、普通に「責任というものは存在する」という前提で話をしています。 
これは話のレベルやレイヤーが異なるからです。 


建物の強度を計算するときには建材としてのコンクリートの強度が分かっていればいいのであって、コンクリートを構成する物質の分子が結びつく仕組みについて考える必要はありませんよね? 

また量子レベルの物質の振る舞いとマクロレベルの物質の振る舞いが異なるからといって、その矛盾を解消しないと建物を建てられないわけでもありません。 

「自由意志」はあたかもある様に感じられるので、本当は無いと判った上で、近似としては「あるもの」と仮定しているのです。 



我々のモラルは進化心理学的な傾向に深く根ざしています。 
モラルは決して恣意的に成立するものではなく、盗みや近親婚の禁止といったルールは普遍的に見られます。 

特に我々のモラルの根本に深く根差すのは「仲間には厚く」というルールでしょう。 
それは利他主義の進化…血縁選択・互恵的利他主義・間接互恵によるものです。 

人類の歴史はこの「仲間」をどこまで広げるか、の歴史でもありました。 
最初は自分の部族のみが「仲間」でしたが、やがて「仲間」は国家を同じくする「国民」にひろがり、宗教家は敵を愛することや全ての人々や生命のつながりすら説く様になりました。 
現在ではこの「仲間」は人類全体へと広がり、種の壁を越えて一部の動物にまで広がりかけています。 

私はドーキンスの日本への普及の実質的功労者は佐倉統ではないかと思っています(そして誤解した形で普及させたのが竹内久美子かと)。 
その佐倉統は「自然主義的誤謬は、最も根源的なレベルについては例外かも」的なことを言っています。 

「自然主義的誤謬」(ヒュームの法則)とは、 
「ものごとが『どうである』という事実命題から『どうであるべき』という価値命題は導出できない」 
というものです。 

例えば、「我々はこれまで神を信じてきた」という事実から「だから我々は今後も神を崇めるべきだ」という価値観は導けません。 
でないと、 
「人類は歴史の大部分において地球が丸いとは思ってなかった」のだから「我々は地球平面説を信じるべきだ」 
ということになってしまいます。 
特に世間では「自然であること」イコール「良いこと」という考えがはびこっていますが、これも同種の間違いです。 
でなければ、 
「自然なことは良い、不自然なことは悪い」のだから「我々は近代医療の恩恵を受けるべきではない」 
ということになり、 
「レイプは雄の繁殖戦略のひとつであり、自然な行動である」と証明されたなら「レイプしても構わない」 
ことになってしまいます。 


つまり倫理と事実は無関係、とされている訳ですね。 
しかし、倫理の起源に進化的理由があるとすれば、倫理と事実は全くの無関係とは言えません。 

我々が「子供は大事にするべき」という倫理を持つ理由が、「そうする個体が子孫を残しやすかったから」だったとすれば、 
「子孫を残しやすい」という事実から「子供は大事にするべき」という倫理が生まれたことになります。 
佐倉統はそれを指摘した上で、「そこは仕方ないやん」と言ってる訳ですね。 



でも石川幹人の自然主義的誤謬に陥った言説は、そういうのとは全く異なる、浅いレイヤーのものです。 
石川幹人の群選択に陥った言説が、マルチレベル選択などの深いレイヤーとは異なる、浅いものだったのと同じですね。 


そんな石川幹人ですが、ダニエル・C・デネット『ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化』の訳者に名を連ねます。 
おかげで名著が読めたので感謝です。 
まぁ翻訳だけなら竹内久美子も良い仕事してますからね! 


(00:23)

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