2022年01月09日
【『悪魔の証明』とは何か】
『悪魔の証明』とは、簡単に説明すると
「何かが『ない』ことは証明しづらい」
ということだ。
例えば「白いカラス」はいるかいないか、といった話の場合、「いる」ことを証明するにはたった一羽の白いカラスを連れてくれば事足りる。
だが「いない」ことを証明するにはどうすれば良いのか?
例え100万羽のカラスを捕まえてその中に白いカラスがいなくても、他の場所にいる可能性がある。
この様に「ない」ことは証明しづらいので、「ある」とする側が証明する責任を負う。
これはしばしばオカルト批判の文脈で使われてきた。
例えば「霊は存在するかどうか」については、挙証責任は「存在する派」にある。
つまり「存在するよ派」が証拠を挙げるべきであり、「存在しないよ派」が存在しない証拠を挙げる必要はない。
ただし、「存在する証拠」がなくてもそれで「存在しないことが証明された」訳ではない。
「証拠がなくても事実である」ということは論理的にはありえる。
だが証拠もないのに認める訳にもいかない。
だから存在の可能性は認めた上で 、
「『ある』と信じるに足りる証拠が出てきたら、その時はちゃんと認めますよ。
でも現時点で証拠のない主張は一旦棄却し、証拠が挙げられるまでは当面『ない』ものとして扱いましょう」
というのが科学的態度というものだ。
だがこの『悪魔の証明』、南京事件やもりかけ問題等で
「『ない』ことは証明できないんだから挙証責任はそっち!」
とネトウヨさんや保守派(最近は両者の違いが曖昧だが)が持ち出すことがある。
なので今回はその問題を取り上げていく。
例えば「はてなキーワード」『悪魔の証明』の項にはこうあるんだよなぁ…。
『悪魔の証明は詭弁的な性格を多く孕み、適用できない事例も多く存在する。実際に使うときには細心の注意をはらうべきだといえる』
ちなみにニコニコ大百科ではこう。
『本来は「悪魔の証明」という言葉そのものは詭弁ではないのだが、悲しいことに、実際には「悪魔の証明」という言葉が使われているのは、ほとんどの場合が詭弁においてとなっている』
…この様に『悪魔の証明』はいろいろややこしいのだ。
もりかけ問題で保守派やネトウヨさん達はこう主張する。
「やってないことは証明しようがないのだから総理は何もする必要がない。
それは『悪魔の証明』だ。
やってるというなら野党やマスコミが証明しろ」
ところが、その論理を社会の様々なシチュエーションに当て嵌めるといろいろ奇妙なことが起きる。
【例1】
「部長、昨日の接待費、立て替え分を清算していただけますか」
「ああ、もちろん。領収証と一緒に書類を出しておいてくれたまえ」
「領収証…? そんなものはありません」
「はぁ? じゃあ清算のしようがないじゃないか」
「では私が不正請求をしているとでもおっしゃるのですか? 不正請求でないことの証明なんてできないので、私は何もする必要はありません。不正の証拠があるならそっちが出して下さいよ」
【例2】
「あなたに殺人の容疑がかかっています。被害者殺害に使われたナイフにあなたの指紋が付いていました。昨日はどこにいましたか?」
「私が犯人でないことの証明なんて出来る訳がないじゃないですか。そんなの『悪魔の証明』ですよ」
「いや、だから当日現場にいなかったことは証明できるかもしれないじゃないですか? 昨日はどこに
「アーアー聞こえな~い。証明責任はそっち! 私は何もする必要なし!」
【例3】
「あなた浮気してない?」
「そんなこと言われたって、してないことの証明なんてできないだろ?」
「じゃあどうしてあなたの上着にラブホテルのライターが
「アーアー聞こえな~い。証明責任はそっち! 俺は何もする必要なし!」
…どうしてこんなことになるのか?
【常に「ないことは証明しづらい」とは限らない】
そもそも「ないことは証明しづらい」というのは常に必ずそうという訳ではない。
白いカラスの例で言うと、「白いカラスなどいない」ことは証明しづらいが、「この部屋には白いカラスなどいない」ことを証明することは難しくない。
そうなると「ないことは証明しづらいのだから挙証責任を負わない」という訳にはいかなくなってくる。
例えば先ほどの【例2】の様に、「あなたが昨日、被害者を殺したのでないこと」はアリバイがあれば簡単に証明できる。
殺人事件の容疑がかかった場合、それを証明する責任を負うのは警察や検察だが、だからといって容疑者がこれといった理由もなく
「『悪魔の証明』だ! 挙証責任はそっちにあるのだから俺は何もする必要はない! アリバイ証明なんて絶対にしないぞ!」
と言い張れば疑惑を深めるだけだろう。
ちなみにいわゆる共謀罪をめぐる議論で保守派やネトウヨさんはしばしば
「後ろ暗いことがないなら協力できるはず」
「嫌がる奴はテロリスト」
などと主張していた。
だが不思議なことにもりかけ問題を巡って
「首相は後ろ暗いことなど何もないのだから積極的に疑惑を晴らすべく協力すべきだ」
といった声が保守界隈から聞こえたことはない。
聞こえるのは
「『悪魔の証明』だ! ないことなんて証明しようがない」
とか
「野党やマスゴミは何一つ立証できてない」
とか
「他にすることがあるだろう」
といった主張ばかりだった。
【「ある」「ない」は逆転できる】
また、「ある」「ない」は表面的には簡単に逆転できる。
先程の「白いカラスはいるか」問題で言うと、
「白いカラスがいるというなら証拠を出してくれ。いないことは証明しづらいからね」
という『いないよ派』に対して、『いるよ派』の側も
「つまり貴方は『白いカラス不在論』を唱えるんですね?
では『白いカラス不在論』を支持する証拠を出して下さい。
そんな証拠が『ない』ことは証明しづらいんだから、これは『悪魔の証明』ですよね?」
と挙証責任を転嫁できる。
先程の【例1】に挙げた領収証の件も
「『君が接待してないこと』の証明などできないのだから、接待したというなら領収証を出してくれたまえ」
「『私が不正請求してないこと』の証明などできないのだから、不正請求したというなら証拠を出して下さい」
…という風に、相手に挙証責任をなすりつけるために何とでも言える。
したがって挙証責任を負うのは「ある」と主張している方というより「特別な説明を必要とする方」なのだ。
【社会的な問題では必ずしも『悪魔の証明』が最優先ではない】
『悪魔の証明』は一昔前まで幽霊や超能力などのオカルト現象が「ある」か「ない」かを問題とする懐疑主義の文脈で使われてきた。
それだけなら比較的シンプルに『悪魔の証明』に頼っても良いだろう。
だが様々な要素が複雑に絡む社会的な問題ではそうではない。
他の理由が優先されることもある。
例えば、日本では自動車が歩行者と交通事故を起こした場合、まず運転手に責任がかかる。
自動車と歩行者では自動車が圧倒的に強者だ。
なのに弱者である歩行者側がいちいち自分の被害を証明しないといけないのではアンフェアだろう。
この様に力関係による重み付けの結果、『悪魔の証明』は必ずしも最優先事項にはならないことがある。
ことに政治的権力というものは大変強力であり、これを濫用すると証拠隠しや揉み消しなど簡単にできてしまう。
だから権力者というものは本来持っている権利が制限されることがある。
財産の公開が良い例だ。
一般人が財産というプライバシーを公開させられる謂れはないが、腐敗しやすい権力を持つ者は私腹を肥やしていないか監視される必要があるので財産を公開される。
ここでは「プライバシーは尊重されるべき」という原則と「権力は自らの潔白を示すべき」という原則がぶつかり合うが、それぞれを必要に応じて重みづけして比べた結果、ここでは後者が優先されている訳だ。
こういった「原則同士の衝突」はままある。
例えば「表現の自由は保障されるべき」だが、では何を言っても良いかというとそれは違う。
差別や誹謗中傷は「人権の尊重」という原則に反するのでNGである。
ちなみにネトウヨさんはこういった二つの原則がぶつかるジレンマ状況で片方だけを声高に叫びがち…
例えば靖国参拝問題では「国のために命を捧げた人に感謝するのは当然」、捕鯨問題では「伝統文化に口を出すな」という自分たちの主張だけを繰り返し、それと衝突する別の原則など無いかの様にふるまうのをよく見かける。
彼らの中では政教分離や有感主義といった概念は存在しないかの様だ。
なお、先述の「権力は腐敗しやすいので自らの潔白を示すべき」という原則は興味深い。
これは一見すると「腐敗していないことの証明などできない」のだから、「悪魔の証明」である。
しかも
「権力は腐敗しやすいので、まだ腐敗しているかどうかは分からない段階でも権利が一部停止される」
などというのはアンフェアにも見える。
それと同様に、
「ないことは証明しづらいので、あるかないかまだ分からない段階でも、『ある』と主張する側が挙証責任を負う」
というのも同じく一見アンフェアだ。
しかしこれは
「『ある』こととは違って、『ない』ことは証明しづらい」
「一般人とは違って、権力は強力な上に腐敗しやすい」
という非対称性を補正している訳で、そうしない方がアンフェアなのだ。
そういう意味でこの2つは同じ構造を持つ。
ついでに言えばネトウヨさんは非対称なものを扱うのが苦手だ。
例えば
「政権批判はヘイトスピーチ」
だとか
「ネトウヨ呼ばわりするのはヘイト」
「『日本死ね』はヘイト」
などと平気で言う。
ヘイトスピーチは「自分で選べない属性に基づく差別」なので、好きでやってる政治家やネトウヨさんにはあてはまらないし、日本人自身が「日本死ね」と言うのは内集団への批判に過ぎず、外集団への差別とは異なる。
ネトウヨさんはこういった非対称性には目を向けず、「どっちも相手をディスってんだし公平に扱えよ」
などと素朴に主張しがち…。
そもそも行政が国民から「その支出って適正?」と聞かれた時に
「適切でないことの証明なんてできる訳ない」
なんて答えて良い筈がない。
そんなことがまかり通れば、どんな不正だってやり放題でしょ…。
実際にはそんなことにならない様に、支出や施策には何重もの決済が行われ、その理由が文書化され保管される。
役所の仕事の多くはその「証明」に充てられ、非効率な程だ。
キルヒアイスも
「形式というものは必要かもしれませんが、バカバカしいことでもありますね」
って言ってたし。
だが、それでもそれは必要なのだ。
最近は「文書の作成も提出もしないが廃棄はする」という悪夢の様な独裁国家もある様だが。
【「悪魔の証明」をめぐる諸問題】
「悪魔の証明」には、他にこんな指摘もある。
●もともとは違う意味
『悪魔の証明』とは本来は
「この土地、君の? 前の所有者から譲り受けた証明書ある? じゃあ前の所有者がその前の所有者から譲り受けた証明書は? じゃあその前の…」
という無限の遡及を指す。
これはどんなものでもどこまでも遡れば「無限の遡及」か「循環論法」か「ドグマ」に陥るという『ミュンヒハウゼンのトリレンマ』