説教する時に「君のために言ってるんだ!」とか恩着せがましく言い訳してくる人っていますよね。
そういうのは大抵「いやいや、それ自分の都合を押し付けてきてるだけやん」としか思えませんが。

こういう「相手のこと考えてる振りしてるけど、自分の為やろ?」という言説はそこかしこに見つけることが出来ます。


例えばしばしば男性が女性に言う「君を守る」
これをロマンチックだと思う女性もいる様ですが…
一体何から、誰のために守るのやら。
今どき肉食獣に襲われる様なことはあまりありませんし、事故や犯罪は常に傍にいても必ず守れる訳でもなく、病気は医師でも無理な時は無理。
そうなるとコレ、「悪い虫が付かない様に守る」という、性的ライバルの排除でしかなくね?
男性側の都合やん。

コレについては『こっち向いてよ向井くん』という漫画でのっけから描かれてます。

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【[20話無料]こっち向いてよ向井くん】
https://dokusho-ojikan.jp/serial/detail/t179242



あと「会社が潰れたら路頭に迷うんだぞ」と脅してくるブラック企業。
さらに「会社が儲かればいずれ賃金に反映されるから」となだめすかしてくる、というのもよくある手。
それって風が吹けば桶屋が儲かるシステムやん。

「景気が良くなれば経済が回るから景気刺激策や」
とか
「上が潤えば下に滴り落ちてくるから、とにかく税金を大企業にジャブジャブ投入したらええんや」
というトリクルダウンも
「回り回ってやがて個人に返ってくる」
という、同様の主張ですが…
アベノミクスで我々が景気を実感できてますか?

この辺は
「パイ全体が大きくなれば、パイの一切れも大きくなる」
という『パイの理論』というやつですね。
しかし実際にパイが大きくなった時、それに応じて労働者が受け取るパイの一切れが大きくなるトコなんか見たことない。
給料は何かと理由を付けてはカットされやすく、上げるべき理由があっても一向に上がりません。
この「賃金の上方への硬直化・下方への弾性化」というやつは私は中学か高校で公民の授業で習いました。
もうそのレベルでダメ確定のやつ。

ちなみに大企業の多くは不景気でも莫大な利益を出していますが、「なんかあった時は経営体力が大事やからな!」と言い張ってそれらを社内留保に回してしまっており、労働者には還元しません。
これを批判する日共に対し、古谷経衡が『左翼も右翼もウソばかり』という本で「共産党は経済オンチだ」と反論。
ほうほう、そう言うからにはさぞ深みのある経済学的な話を聞かせてくれるのか…?
と思って読み進めたら、「なんかあった時は経営体力が大事やからな!」という企業側の言い訳がそのまま書いてあってずっこけました。
そんな古谷経衡ですがその後、れいわ新選組党首選に立候補&落選。
れいわの方が経済政策を支持できたんか…?



そしてこの手の怪しい言説の最たるものが「国益」です。
国益とやらになる選択をしたとして、それが個人の幸福にどうつながるのでしょうか?
つながらないなら、個人がそれを行うインセンティブはないよね?

「国益」とか「全体の利益」は大抵、それを叫ぶ者が受益者だったりするものです。
オリンピックとかそうだったでしょ。
『愛国心はならず者の最後の拠り所』という言葉もあります。
そういえば戦争を推進した人が戦場で死んだ例ってあまり聞きませんよね。
彼らは「全体のために」個人に犠牲を強いますが、自分がその犠牲を払うことはまずないのです。
体の良いフリーライダー(ただ乗り屋)やんけ!


そして「会社が潰れたら路頭に迷うんだぞ」式ロジックの延長にあるのが「国が滅べば我々も生きられないんだぞ」というやつ。
え、そうぉ?
民族浄化でもされない限り、国家の看板が掛け変わるだけで、国民は平気じゃね?
実際、太平洋戦争の頃は「鬼畜米英に負けたら男は皆殺しにされ、女は犯される!」と信じてた人もいたけど、敗戦してみたら『大日本帝国』が『日本国』になっただけ
進駐軍は皆殺し&レイプどころか、自由や民主主義までくれたじゃないですか。

ましてや市民までもがリアルタイムで全てをネット中継できる現在、どんな悪辣な国家でもそうそう無茶なことは出来ませんよね?


この様に、誰かが「こうするべきだ」と叫んだ時、我々は立ち止まって
「それは誰にとって『そうすべき』なのか? それは誰にとっての『善』なのか?」
と問い直してみるべきです。


そもそもそんなに国益や全体の利益が大事なら、まず提案者が率先して自己犠牲を行うべきでは…

あと個人に犠牲を強いるより、企業を「利潤より公益を優先」にさせる方が簡単で効率的ですよ?

思えば企業って凄いですよね。
だってその存在理由が「利潤の追求」なんやで?
個人が「私は己の利益ファーストで生きてます!」とか言い出したらドン引きですやん。
ところが企業は話が逆。
むしろ利潤に反するコトしたら、それは背任です。
「お客様第一主義」とか耳当たりの良いこと言ってても、それはそうすることが信用を高めて利潤につながるからに過ぎません。
「お客様二の次主義」の方が儲かるなら彼らはそうするでしょう。【註1】
実際、様々な形での消費者への裏切りは枚挙に暇がありませんよね。
セ〇ンイレンの詐欺的なあれやこれやとか。


ちなみに学生の頃、クラスに一人くらいは「とにかく成り上がりたい」とか「愛よりお金でしょ」という、上昇志向が強火の人がいましたよね。
彼らはクラスでは浮いてる存在でしたが、経済界や富裕層は基本的にそういった人たちの集まりです。
だってそういう人でないと経済的な成功は難しいし。
あんなヘンコや奇キャラばかりが経済界を動かしてるのかと思うと怖い。
こういうバイアスが存在することに気付くことは重要です。


脱線してきたので話を戻しまして。
こういった発想は実のところ、進化論と非常に親和性が高いんですよね。

進化論はヒトの行動を説明します。
勿論、ヒトは遺伝子の命令だけを聞く訳ではなく、文化からも影響を受けますが、文化的行動は「遺伝子の文化版」であるミームで説明することができます。
特に「利己的な実体の利益の対立」とか進化論の得意技。
その辺を利用して経済学に援用されたりしてますね。『進化経済学』という分野まであるし。
あと数学のゲーム理論を取り込んだり、実に学際的。
それだけ進化論的発想には普遍性があるのです。


進化論絡みで言うと、本ブログではしょっちゅう群選択批判をしています。
大事なことなので、もっかい説明しておくと…(何度でも説明する)

生物は自然選択によって進化します。
しかし実際に選択される「モノ」とは何なのでしょうか?
ダーウィンは「個体やで」と考えました。
しかしその後の学者たちは「種全体」だと考えました。
これが群選択です。
「オオカミ見てみ?
あのえげつない牙で仲間同士でガチでやりやったら死んでまうやろ。
そうなると『種の存続』が危ういから、儀式だけにしとる」
「大事なのは『種全体の利益』や」
「個体は種のため・全体のために自己犠牲を行うんや」

という訳ですね。
これは一見、説得力があります。

しかしさらにその後、学者たちは気付きました。
「おかしくね?
そら『自己犠牲的な個体の群』は強いやろ。
でもそういう群に『自分は一切自己犠牲をしない、利己的な個体』が出てきたり流れ込んだらどうなる?
コスト支払わずに得だけしよるし、ビチビチ増えるやん。
そしたらその群はもう『自己犠牲的な個体の群』やなくなるで」

…というわけで個体選択が正しく、生物は個体レベルで争っているのです。

「ええっ、ウサギはキツネに捕まらない様に走るやん。
争ってるのは『ウサギという種』と『キツネという種』じゃないの?」

と思われるかもしれません。
確かにウサギとキツネの間には進化的な『軍拡競争』があります。

それでも競争は個体間で起きるのです。
こんなジョークがあります。

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2人の登山客が山の中で突然、熊に襲われた。
1人は慌てて逃げ出したが、もう1人はリュックサックからスニーカーを取り出そうとしている。
先に逃げた方は
「一体何をしているんだ!?
それを履いたからといって、クマより速く走れるわけじゃないんだぞ!」
と叫んだ。
もう1人の男は悠然とスニーカーを履きながらこう言った。
「でも君よりは早く走れる様になるからね」


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より正確に言えば、本当に選択されるのは個体ではなく遺伝子です。
しかし通常、遺伝子と個体は利害が一致します──が、一致しないときは遺伝子の利益が優先されます。


社会を「利己的な実体が協調しあう集合体」と考えるなら、基本的に下位レベル──国家ではなく個人の利益が優先されるでしょう。
個人には身を犠牲にして国家のために尽くすインセンティブなどないからです。
上位レベル──つまり国家のためには、下位レベル──つまり国民を犠牲にしても当然だ、という発想は幻想に過ぎません。


我々の脳は時に体の一部を犠牲にすることも出来ます。
例えば手術による手足の切除──あるいは脳それ自体の一部の切除にさえも──に同意する、といった様に。
しかし手足は文句を言いません。
これと同じ様に、国家が国民に犠牲を強いることを正当化できそうな場合もありそうにも思えます。

しかし、手足が脳の命令に逆らわないのは、遺伝的な未来を共有しているからです。
脳も手足も同じ精子や卵子に乗った遺伝子を通じて次の世代で再生産されます。
手足を切除することで他の部分が生き残り、子孫を残す時、手足も遺伝子の形で生き残るので、手足は切除されても無駄死にではないのです。
つまり脳と手足の間には利益の衝突が起きないんですね。
これは個体と遺伝子の間だけでなく、ハチのコロニー等にも当て嵌まります。
ハチのコロニーは「超個体」とも呼ばれますが、これはコロニーの存続を通してしか個体も再生産されないため(※例外あり)、コロニーと個体の間に利益の衝突が起きないからです。

しかし国民と国家はそうではありません。
国家が国民を犠牲にして生き残った場合、国民は丸損です。



そんなこんなで、進化論を学ぶことは政治についてホント勉強になるのです。
当ブログでも時どき解説エントリを書いてますので是非。


http://wsogmm.livedoor.blog/archives/16462756.html

http://wsogmm.livedoor.blog/archives/16462696.html

http://wsogmm.livedoor.blog/archives/17563356.html


進化論からは、
◉「個体」の様なまとまりのある単位は自らの利益を追求し、自らの存続と最大化を目指す
◉「集団と個体」の様に、異なるレベル・単位の間で利害が対立することがある
◉下位のレベル・単位の利益を確保せずに、上位の利益だけを追求するのは無理がある
◉何かが「利益になる」「役立つ」「ためになる」と言う場合、「その真の受益者はどの単位なのか」を考えることが重要

といったことを学べます。

これらを政治の問題に置き換えるなら、
◉個人も国もそれぞれに自分の利益を追求する
◉個人の利益と国家の利益は対立することがある(例:個人は節税したいが国はしてほしくない)
◉個人の利益を大事にせずに国のために犠牲を強いるのは無理がある
◉「国益を優先すべき」とか言う場合、その国益は自分にとっても利益になるのか、そう主張する者が私腹を肥やすだけではないのか、考えよう

…ということになるでしょう。

国家は個人の上に君臨するものではなく、個人の幸福のための便利な道具に過ぎません。
「国益を優先すべき」といった言説には十分に注意すべきでしょう。

しかし「国益ガ―!」を口にする人は実際には受益者というより、「自分は受益者でもないのに、やたらと受益者の肩を持つ人々」である様に思えます。

「肉屋を支持する豚」という言葉がありますが、受益者でもないのに「国益優先」を叫ぶ個人とはまさに「自分たちの生命よりも肉屋の利益だ!」と頑なに信じている豚のようなものでは…。【註2】

大切なのは「正しい答」を探すことよりも「正しい問い」を発すること。
「その選択は国益にかなうか」の答を考えることも大事かもしれませんが、「そもそもその国益とやらの実際の受益者は誰なのか」という疑問を持つことの方が有益なのではないでしょうか。



例えばこのエントリにしても、筆者は何の益があって書いたのか…。
進化論系エントリの読者を最大化するために書いたのかもよ?











【註1:「お客様二の次主義」の方が儲かるなら彼らはそうするでしょう】

究極的には個人も「自分の利益になることしかしない」とも言えます。
我々は適応度を最大化する様に進化してきたのだし、いかなる行動も快楽原則に基づくのだと考えれば「気持ち良いからやってる」に過ぎないからです。
それでも個人にはまだモラルが期待できますが、企業には見込み薄なんだよなぁ…。



【註2:頑なに信じている豚の様なもの】


敵対者をゴキブリなどの嫌悪感を催す動物になぞらえる、という手法はネトウヨさんの得意技。
こういうのは悪魔化や誹謗中傷なので感心しません。
…が、ここではそういった意味合いで侮蔑的に豚を引き合いに出している訳ではありません。
むしろ誤解を招きそうなので出来れば避けたかった…
しかし「肉屋を支持する豚」は一種の成句なので。
言いたかったことは「自らの足元を掘り崩す様なことはやめなよ」的なことに過ぎません。
それを分かりやすく伝えるには他に例えを思い付きませんでした。
それに豚は実際には清潔好きで愛すべき生き物ですよ?