まず最初に言っておきますが、「ポリコレ棒」の問題は確かに存在します。
人権思想の浸透と拡散により、何かちょっと勘違いした連中が増えてきたのは事実でしょう。

かと言って、ネトウヨさんによく見られる「左翼がポリコレ棒で俺たちを滅多打ちにしてやがる」「ポリコレ、イラネ」という態度はいかがなものかと。

そもそもは差別やヘイトスピーチが問題で、ポリコレ自体はそれらへの対応策として発達したもの。
政治的には概ね、差別やヘイトスピーチに受容的なのが右派、ポリコレに賛成なのが左派ですよね?
自分たちのお仲間が差別棒・ヘイト棒を振り回して相手を滅多打ちにしてたのに、「ポリコレ棒で叩かれた!」と急に言い出す被害者しぐさ
ヘイトスピーチしてた癖に「ネトウヨ呼ばわりはヘイトスピーチ」と言い出す人々と変わりません。


この辺の問題は以下のエントリを参照。


『ネトウヨさん「ネトウヨ呼ばわりはヘイトスピーチ」「ネトウヨの定義を言ってみろ」←は?』
http://wsogmm.livedoor.blog/archives/10239553.html


でもそれだけだと差別棒とポリコレ棒の殴り合いは、子供の「あっちが先に手を出したんだ!」「ちがわい!」という水掛け論と同レベルの泥仕合にも見えてしまいます。

…が、両者にはハッキリとした違いが。
そもそもヘイトスピーチは何があっても絶対に許されないこと。
対して反差別はそれ自体は正しく、ネトウヨさんですら「ポリコレは根っこから間違ってる!」といった正面からの批判はあまりできず、「行き過ぎだ!」といった部分的批判をするしかなくなっています。


左翼は「社会や環境による影響」を重視し、右翼は「個人の責任」を重視しがち。
これはどちらも行き過ぎると「何でもかんでも社会のせい」とか「何でもかんでも自己責任」に出来てしまいます。
…が、それはどっちもおかしいですよね。
ここは中庸の道を往きたいところ。

ちなみに中庸は「いつでも常にア・プリオリに正しい」訳ではありません。
ドーキンスの『敵対的論争の法則』によれば、
『二つの相いれない信念が等しい強さで主張されるとき、真実はその中間にあるとは限らない。片方がまったくの誤りである可能性がある。』
…その通りですね。

しかしこの場合は「左右どちらにせよ、行き過ぎは良くない」という話。
「行き過ぎ」が「良くない」のは定義により正しいですよね。
だって「行き過ぎ」というのはそもそも「良くない」状態のことであり、「行き過ぎは良くない」は「良くないのは良くない」と言ってるのと同じ。
これは循環論法・同義反復(トートロジー)なので、「何も言っていないのと同じ」レベルで当たり前。
しかし同時にだからこそ間違い様もない恒真命題でもあります。
「力こそパワー!」とかと同じ。
「あまり意味はないけど確かに正しい」のです。

そして左右ともに行き過ぎがあるのも確かです(その頻度やトンデモ度には違いがありますが…)。
そんなこんなで今回は中庸が正しそうですね。

振り子を思いっきり振ると、振り子は右へ左へと振幅を続け、それでも段々とふり幅が狭くなって、最終的には中間地点で静止します。
ウヨサヨもそれと同じ。
社会の政治的・思想的潮流が片側に行き過ぎると、それに対する批判や反省が起き、逆側に揺り戻しが起きますが、今度は逆側に行き過ぎが起きます。
しかしそれらの批判を通じて相互の行き過ぎは是正され、振れ幅は狭まって中庸に近づいていきます。

なので「右傾化しすぎだ」「今度は左傾化しすぎだ」という「行き過ぎの指摘」は別に構わないのですが…
ネトウヨさんは極端で、「そもそも左翼的言説は全て害悪!」とばかりに振り子を本来の位置より思いっきり右へ…戦前・戦中の位置まで押し戻し、何ならさらに高く持ち上げようとさえしてますよね。
そしてここまでの議論はガン無視。
しかもポリコレの基本的な正しさは認めざるを得ないので「行き過ぎ」が問題だ、という形でしか批判できなかった筈なのに、いつの間にか特に根拠も示さずポリコレ全否定。



「誰もが平等の権利を持つ」という人権思想は長い時間をかけて人々を説得してきました。
「頭の悪い黒人なんかに俺らと同じ権利がある筈ないやろ、そんなん常識やん」というのを少しずつ変革し。
「家の仕事しかできない女なんかに俺らと同じ権利がある筈ないやろ、そんなん常識やん」というのを少しずつ変革し。
「キモい同性愛者なんかに俺らと同じ権利がある筈ないやろ、そんなん常識やん」というのを少しずつ変革しつつあります(どれもまだ充分ではないし、逆に行き過ぎもありましたが…)

しかしここへ来て今頃
「異民族、女、LGBT…こいつらに権利は不要」
「むしろすでに優遇されすぎ」

とか言ってるのがネトウヨさんな訳ですね。

なんか今どき
「進化論は間違ってる」
「正しいのは聖書」

とか言ってる人を見ちゃった気分…(今でも少数ながらいる点も似てますね)。
それ160年くらい前の議論に戻ってるから。
かつて聖書が正しいと信じられていたのをひっくり返したのは、進化論があまりにも説得力に満ちていたからです。
マイノリティ―の権利も、多少の後退はあれ、全般的には拡大の一途を辿ってきたのは、その論理に説得力があったからでしょう。

しかしトンデモさんは「とっくに決着済みの話を何度でも蒸し返す」のが特徴のひとつ。
政治的トンデモさんであるネトウヨさんも例外ではありません。
社会が何十年もかけて合意にこぎつけた議論の場にいきなり現れて、「それっておかしくね?」と素人が真っ先に考えそうな意見を大声でまくしたてるのは勘弁な!
新たな視座からの意見なら歓迎するけど、こんな手垢のついたテム・レイエンジンみたいなモン、ドヤ顔で持ち込まれましても。
議論に加わり、まともに相手してほしいなら、最低限の歴史の流れは把握しておいていただきたいものです。
近代以前からタイムスリップしてきた人の意見みたいなモン、いちいち相手してられるほど皆さんお暇ではありません。

先ほど振り子のアナロジーに訴えてましたが、ソレはあくまで「相互の行き過ぎをどう修正していくか」についての話。
社会全体の流れとしては世界はリベラルに傾き続けています。

保守はそれへの「抵抗勢力」に過ぎず、リベラルからはしばしば「バックラッシュ」と揶揄される始末。
バックラッシュとは、Wikipediaの「曖昧さ回避」によれば
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
バックラッシュ (社会学) - 人種やジェンダーなどの社会的弱者に対する平等の推進や地位向上などに対して反発する動き。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
…だそうです。
(複雑な概念については専門の項より「曖昧さ回避」が簡潔、というWikipediaあるある)
語源はネット上には情報がありませんが、「逆流して噴きこぼれる酒の泡」みたいな意味だったかと。


少し前、ダグラス・マレーの邦訳『大衆の狂気 ジェンダー・人種・アイデンティティ』という本が出ました。

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黒人や女性やLGBTの権利擁護はしばしばダブスタに陥っている、という論調の本で、よくあるバックラッシュ本かと思ったのですが…
ドーキンスが推薦しててびっくり。
まぁドーキンスはリベラルなのにポリコレ棒で叩かれてきた人なので…。
その辺、詳しくは以下を参照。


【ドーキンスの炎上騒ぎ ~時に左翼も行き過ぎる件~
http://wsogmm.livedoor.blog/archives/12835525.html


…が、この本、注意深く読むと結局のところ、リベラルの流れにあることが解ります。
著者はフェミニズム系の会議に呼ばれたりするゲイの人で、行き過ぎは批判してるけど、反差別そのものはちゃんと認めています。
いわばリベラルの自浄作用

振り子の話で言うと、左に振れ過ぎたものを押し返して右に振れ過ぎさせるのではなく、最終目標地点である真ん中まで持ってきて止めようとする感じ。
そもそも行き過ぎは左右どちらにせよ好ましくないので、本来は誰もが真っすぐ中間地点を目指すべきですなんですよね。
まぁ運動の慣性とか、組織それ自体が「存続と最大化」をめざしちゃう利己性を持ちがち、とか、いろいろ事情は分からなくもないんだけどさ。

…が、一方でコレは危険な書でもあります。
反差別の行き過ぎ部分だけを抜き出せば、それは簡単に差別側の武器に転用できるからです。
まぁ右派は「引用文は原文が埋め込まれた文脈にちゃんと気をつける」という最低限のリテラシーに欠ける人を豊富に輩出しちゃってますからね~…。